台湾リベンジ 第7夜 得恩谷

2008年1月21日

 

『お、お兄ちゃんあんたここまでいったい何で来たのよ…?』

「い、いや、バスですけど…」

『バ…ス…?』

「そ、そう…」

『え、エェェェェッ~!!』

 

日が陰り始めた午後4時半、僕は台湾南部の山中で観光案内所のおばちゃんに絶叫を浴びせかけられていた。

おかしいなあ、今日は今ごろ、小琉球とかいう離島を満喫しているはずだったんだけどなあ…。どうしてこうなったよ…。

 

(以下、今日一日のことを回想中)

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午前10時すぎ。当然のように寝坊した僕は、コンビニで菓子パンと例の新聞を買い込み高雄駅近くのバスターミナルへと向かった。

1月のくせに妙に蒸し暑い中で、昨晩40分かけてまっすぐにしたはずの髪の毛はすでにあらゆる方向へとうねりまくっていたが、いまはそんなことを気にしている場合ではない。今日はなんと、高雄南部の海に浮かぶ離島、その名も小琉球へと向かうのだ。1年の晴天日数は300日を超え、青い海、白い砂浜、そして美しい夕日が待っているという小琉球(すべて『地球の~』に書いてあった)。旅も中盤に差し掛かりそろそろ疲れも溜まってきたころである。美しい離島でのんびりと一日を過ごし、旅の後半戦に挑もうではないか!こういった何ともうれしい心遣いにあふれた計画なのだ。

 

「にいはお!おじちゃん、東港一票!」

『あいよ!ほれ、東港一票!』

 

 小琉球へ行くには、まず船が出港する高雄近郊の『東港』という名の港まで行かなくてはならない。そして東港へは高雄駅の隣にある塀東客運のターミナルから30分に一本くらいの割合で出ているバスで向かうことになる。

 塀東。なんとも懐かしい名前である。1年前、原住民の村へ行こうと早朝に訪れ、結局バスターミナルの場所が分からず滞在時間わずか20分で後にした因縁の街。もちろん今回の日程の中にも原住民の住む村は含まれており、予定では明後日くらいに訪れようと考えている。

まさにリベンジの時。待ってろ塀東!

『お~い東港いくやつはいるか~!バスがきたぞ~!』

「は~い!」

 

高雄駅前を出発したバスは、街中をしばらく走りいくつかの停留所で客を乗せると、高速道路に乗り郊外へと向かっていった。

 高雄という街は、台北に次ぐ台湾第2の都市だけあり駅前からしばらくはビルが立ち並び交通量も多いのだが、少し郊外へ行くと庶民的な街並へと変化していく。遠くにはヤシの木畑が広がり、なんとも素朴な風景が広がっている。

 東港までは1時間弱、素朴な風景を眺めながらバスに揺られていると、起きたばかりだというのに…眠気が…襲…って…。

Zzz…。Zzz…。

…。

『東港!東港!降りる奴はいるか~!』

『ちょっと日本人のお兄ちゃん、あんた東港で降りるんじゃないの?』

「Zzz…。Zz…はっ、えっ、東港!?」

『東港ついたわよ!のん気に寝てないで早く荷物持って!』

「は、はいはいっ!おりま~す!」

 

危なかった…。念のため乗る時に「東港へ着いたら教えてね!」と言っておいて(というか指さして)よかったよ。ついでに前の席のおばちゃんにも聞こえるようにわざとらしく「東港…東港…」と独り言を言っておいて本当によかった。さすが、旅慣れている男である。さて、小琉球行きの船はどこかしら。

…。

あ、あれ?

 

船は?というか海は?

驚くべきことに、バスのみんなから『東港!東港!』とはやし立てられて降りたバス停の前には船は一隻もとまっていなかった。というかまず海すらなかった。目の前には台湾の地方都市にありがちなセブンイレブンやら原付バイク屋やらが立ち並ぶメインストリートの風景が広がっていた。

そして肝心の海は、その姿を見せないどころか、潮の匂いすら漂わせていなかった。僕は中学時代、海に比較的近い(2キロくらい)中学校へと通っていたので海の匂い、というか磯臭い匂いはよく知っている。その匂いが一切しないのだ。

港は?船は?一体どこに…?

しびれを切らした僕は、なるべく動揺していることがばれないように自然な感じで、バスの切符売り場のお姉ちゃんにこの謎を問いかけてみることにした。

「すんません。『東港』って、ここですよねえ?」

『ええ、そうよ。まさしくここは東港よ。』

「でっ、ですよね。ふ~ん。ちなみに船とかはどこにあるんすかねぇ」

『ハ?』

「い、いや、小琉球なんかへいきたいな~と思ってですねえ」

『小琉球?ああ、あんた小琉球いきたいの!?なのにここで降りちゃったの?』

「降りちゃダメだった?」

『あのねえ、東港っていうのは港の名前じゃなくてこの村の名前なの。だから小琉球へ行くためには、『東港村の船が出る港』へ行かなくちゃ!』

「へ、へえ~…、そ、そうなんですねえ、ふ~ん」

…。

おい!『地球の歩き方』にそんなことひとっことも書いてなかったじゃねえか。そういう大事な情報載せないもんで恥かいたじゃねえか。『台湾料理百選』とかってくだらねえページばっかり充実させやがって。

 

「ち、ちなみに『東港村の船が出る港』はどのあたりにあるんでしたっけ…?」

『ちょっと遠いわねえ…。タクシーもさっきまでそこにいたけどいつの間にかお昼ご飯食べに行っちゃったし』

「うぅ…」

せっかく高い金払って(200円くらいだけど)ここまで来たっていうのによう…。

 

『まあ仕方ないわよねえ。あ、バスが来たから仕事に戻らなくちゃ!塀東行きのバスが到着~!お乗りの方は3番乗り場へどうぞ~!』

…。

えっ?塀東?

そうか、このバスへ乗って行けば塀東まではいけるんだ。そうすれば夕方発の原住民の村行きのバスにも乗れるんじゃないかしら…。

…い、いや、途中で投げ出すのは良くないぞ。1年前だってそうだったじゃないか。途中でコロコロ計画を変えた挙句1日で台湾を3/4周しちゃったんじゃないか。ここまできたら小琉球行くしかないじゃない。

…いや、でも時間を無駄にしないためにもここは塀東へ行った方が…。

この旅最大の危機をむかえ(どこがだ)悩む自称:旅慣れた男。果たして彼が下した決断とは…?

 

 それから1時間後、僕は懐かしの塀東の駅前バスターミナルに立っていた。しかし、東港から塀東って意外と近いんですね。バスターミナルも駅の目の前にあるのに、どうして去年は発見できなかったのかな?

気を取り直して、山中の原住民の村、その名も多納村へとフレキシブルに目的地を変更した僕は、ターミナル内に多納村行きのバス時刻表が張ってあることを確認し、メモ帳に『多納 1票 16:00』と素早く書き込み、売り場のお姉ちゃんに見せつけてやった。さすが旅慣れているだけあって切符の買い方も実にスムーズである。

『あの~、多納行きのバスね、もうないのよ。』

「は?」

『多納行きのバスね、廃止されてもうないのよ。没有なの没有』

え?だってそこの時刻表にもしっかり書いてあるし、『地球の~』にだってちゃんと…。

 あっ、そういえば1年前、高雄のバスターミナルで…。

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なんとか靖をまいてバスターミナルに避難すると、今度は作家の井上ひさしひょっこりひょうたん島の作者)が話しかけてきた。彼は少し日本語が話せた。さすがひさし先生。でも、日本語が少し話せる分、石田靖よりもしつこい。ためしに塀東までいきたいといったところ、

「塀東?NO!恒春イキマショウ」

などといいだす。恒春とは台湾最南端の町で海がきれいな台湾のリゾート地だ。しかし今は朝の4時前。さすがにそんな時間にひさし先生とリゾートへなんか行きたくない。論外である。塀東から原住民の暮らす多納村へいくから結構ですよ、そうかえすとひさしはとんでもないことを言い出した。

「多納?バスナイヨ!塀東、多納バスナイ!」

おいおい、ひさしいい加減にしろ。残念ながら『地球の歩き方』日に3本あるとかいてあるんだ。
しかし、ひさしがあまりに「ナイヨ!ナイヨ!」とうるさく言うのでだんだんと不安になってきた。そういえば出発前にネットの掲示板を見ていたら、「地球の歩き方には間違った情報も書いてあるから気をつけたほうが良い」とあった気がする。う~ん、こまったぞ。

-------------------------------------『ぼっちで台湾』より引用---------

 

そうだよ、1年前のあの時、井上ひ○し先生っぽいタクシーやろうが確かそんなこといっていたんだよ。てっきり嘘だと思って物凄く拒絶してしまい、ショックをうけた彼は、その後行方不明になったという噂だけど、実はひ○し先生、物凄くいい人だったんじゃないか…。ごめんよ、あの時は疑ってしまって…。もう二度と会うこともないと思うけど…。

しかし、『地球の歩き方』は1度ならず2度までも純粋な心を持った旅慣れた男に恥をかかせたことになる。

 

『で、多納の件なんだけど…』

『地球の~』を破り捨てようかとういう勢いで激しく憤っていた僕に対し、受付のお姉ちゃんは以下のようなことが書かれたメモを出してきた。

 

 多納 ×   大津 ○ ←有

 

『多納○×▽▲★!』

メモを見せながらお姉ちゃんは何やら説明してきても、残念ながら僕は中国語を全く解さないため内容を想像するしかないのだが、要するに多納までのバスはないけれど、その途中にある大津という村まで行くバスは走っているのでとりあえずそこまで行ってみろ、ということではないのだろうか。地図を広げてみると、塀東と多納のちょうど中間あたりに確かに大津という文字が書かれている。

「有没有大津?(大津まではあるんですね?)」

『是!有!』

いつまでも塀東にいても何も始まらないので、とりあえず大津までの切符を買いバスへと乗り込んだ。大津にはバスターミナルがあって、そこから先は、きっとバスの到着に合わせて、地元が運営するちっちゃいマイクロバスでも接続しているんだろう。受付のお姉ちゃんはきっとそのことを説明していたんだよ。そうさ、きっとそうだよ!

 

そんなわけで、無事に塀東を脱出することに成功した僕は、最高に揺れの激しい塀東バスの中で吐き気との壮絶な戦いを繰り広げること1時間、日が傾き始めた午後の4時半に大津のバス停で降車した。そして、全く何もないバス停の前でただ一人呆然と立ち尽くしていた…。

バスターミナルは?接続のマイクロバスは?そして一体ここはどこ…?

 終点だと言われ降りた場所には、期待していたバスターミナルもマイクロバスもタクシーも無く、というか人自体ほとんど見当たらず、2,000mの山中ですらあったセブンイレブンマクドナルドも何もなかった。その変わりといってはなんだが、薬物中毒者のような眼をした、十中八九狂犬病に感染していると思われる真っ黒い野良犬たちがたくさんうろうろしていた。

なんだこの世紀末な街は…。

『ウゥ~ワンワンワン!!』

「ひィ~」

僕の世紀末発言にご立腹気味の大津の野良犬さんたちに吠えたてられた僕は、仕方なく先へと進むことにした。

 しばらく道を進み、大きな川にかかる橋を渡ると、『茂林国家風景区入口』と書かれた大きな門が姿を現した。多納はこの国家風景区(日本で言う国立公園)の一番奥の方にあるはずなのだが…。

 あれ…?もしかしてあの建物…。

 門の横の方には「information」と書かれた公園のトイレのような大きさの建物が建っていた。

 Information=観光案内所=多納までの行き方を教えてもらえるかも…。

「すいませ~ん!にいはお~だれかいますか~」

『は~い、あら日本人?こんな夕暮れ時に何か御用かしら?』

「え~と、多納までの行き方を教えていただきたいんですけど」

『多納?多納なら外にあった大きな門をくぐって道をまっすぐ行けばいいのよ』

そんなことは分かっている。

「それは歩いてもいけるもんですか?」

『あははは!あなた面白いこというわねえ!もちろん歩いてもいけるけど6時間くらいはかかるわよ!まあ普通はみんな車でいくわよ!』

「あはは、ですよねえ~」

『そうよ~。で、あなたの車はどれ?』

「いや、僕、車もってないです…」

『えっ!?』

「えっ!?」

『あ、あ~、バイクね!そうよね~若者はバイクに限るわよねえ』

「ですよねえ!まあバイクでもないですけど…」

『えっ!?』

「えっ!?」

『あっ。はいはい、じっ自転車ね!若者は機械なんか使って楽しちゃだめよネ!』

「エヘヘ、自転車もないです…」

『えっ!?』

「…。」

『お、お兄ちゃんあんたここまでいったい何で来たのよ…?』

「い、いや、バスですけど…」

『バ…ス…?』

「そ、そう…」

『え、エェェェェッ~!!』

(以下、現実世界へ戻る)

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長い回想だった…。

と、こういう経緯でおばちゃんから絶叫を浴びせかけられてしまったわけなのだが、彼女の反応を見る限りこの先多納へと向かうバスは走っていないようなので、それならば方法は一つ、タクシーを呼んで多納まで行ってもらうしかない。

「それでですね、ここは一つタクシーを呼んではもらえないでしょうかと…」

『バ…バス…』

あーダメっぽい。バスでここまで来てしまったのがよほど衝撃的だったのだろうか、僕がいくら「Please call taxi!」と連呼しても彼女は聞いてくれなかった(実話)。

『なんだなんだ、なにかあったのか?』

『しょ所長!実はこの日本人の男の子が…』

なにやらただならぬ雰囲気を察してか、ついにトップのお出ましだ。そうだそうだ、すぐ動揺しちゃうおばちゃんじゃダメなんだよ。トップを出せトップを。

『ふむ…。多納へ…。バスでね…。バ、バス!!』

『そうなんです。この子バスで来ちゃったって…』

『な、なんでよりによってバスでなんか…』

「いや、まあそういうわけで、Please call taxi!」

『バ…バス…』

ダメだ、所長まで遠い世界へ行っちゃったよ…。

『そ、そうだ!宿は!君、宿はどうした!』

『そうよ!宿の人に迎えに来てもらったら!』。

「No、No booking」

『え、エェェェェッ~!!』

彼らが必死に考えた妙案をもあっさり打ち砕く僕の常識はずれの行動に2人はどこか遠くの世界へと行ってしまったようで、このあと何度「Please call taxi」と連呼しても全くの無反応。

くっそー、どうすんだよ…。こんな何もない村で狂犬病持ちの野良犬と一緒に野宿か?明日の朝にはめでたく狂犬病キャリアの仲間入りか?うぅ…今となっては東港が懐かしい…。

『日本の人?どうかしましたか?』

!?

「い、いや実は多納へ行きたくて…」

『ふむふむ、多納ですか』

僕と所長たちとのやり取りを後ろで聞いていたのだろう、一般の観光客と思しきおばちゃんが話しかけてきてくれた。しかも、日本語で。

『わかりました。あなた、私たちの車のる!私たち多納いきます^^』

「え、エェェェェッ~!!」

今度は僕が絶叫する番である。だって観光案内所の所長ですら手に負えない、夕暮れ時に山中を徘徊するあやしい外国人の男を車に乗せようなんて…。

「い、いやでも…」

『大丈夫!私たち家族で旅行中!多納いくから^^』

「ほ、ホントに…?」

『はい^^』

おいおい、なんだよこの展開。リアル『深○特急』かよ…。

『よかったな~青年!これで狂犬病にならなくてすむなあ!』

いつの間にか遠い世界から帰ってきていた所長と案内所のおばちゃんが一仕事終えたといった満足そうな顔でこちらを見ていた。というか、あなた方はなにもしていない。

『日も暮れてきたし、はやく行きましょう^^』

親切なおばちゃんに言われるがまま乗り込むと、車は薄暗闇の中を静かに動き出した。

 

先ほどの日本語が少し話せるおばちゃん曰く、彼らは旦那さんと息子さん、そして息子さんの友人の計4人で台北から東周りで旅をしているそうで、今日は台東からきたらしい。

 運転手であるお父さんは英語が話せるらしく僕にいろいろと話しかけてきた。

『青年!名前は何という?』

「かずおと呼んでください」

『Kazuo? OK! 私たちはHappyといいます』

Happy?ああ、例のクリスチャンネームか。

『ところでかずお、我々は今日、多納の少し手前にある民宿に泊まるんだが、君は泊まるところ決めてないんだろ?』

「はあ、よくご存じで…」

『だったら私たちが泊まれるか頼んであげるわよ^^』

いやいや、お母さん、そんなずうずうしいこと…。

『いいって!君は中国語分からないんだろ?ならおれたちが聞いてやろう!』

お父さん、あなたまで…。

 偶然出会った外国人を車に乗せてやるだけでなく、なんと宿の交渉までしてあげるだなんて…。あなたたちどんだけ優しいんだよ…。

 観光案内所から20分ほど走ると、車は『得恩谷の民宿』と書かれた看板のところを右に曲がった。

 余談だが、台湾の街を歩いていると、店の看板にやたらとひらがなの「の」が使われていることに気づく。はたしてどうしてなのか?日本統治時代に名残なのか?ただ単に使いやすいからなのか?むしろ形が丸っこくってかわいいからなのか?理由は定かではないが、とにかくあらゆる場所で「の」の字を見ることができるのだ。

 

 車が止まると、Happyおじさんはすぐに宿のおじいちゃんと交渉を始めた。

『お~日本人か!今日とまれるよっ!1,000元でどう!』

1泊素泊まりで1,000元は正直な話予算オーバーなのだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。『指さし~』の『もう少し安くなりませんか?』のページを開くことなく即決である。

『よ~し!そこの建物だから自由につかってくれよ~』

よく日焼けしており、いかにも山の男といった感じの宿のおじいちゃんに案内された部屋は、5~6人がまとめて泊まれるであろう、板張りの床に蒲団が置いてあるだけの質素な部屋だった。どうやら民宿とはなばかりで、ここは中学生とかが宿泊訓練で利用する青少年の家みたいな施設のようだ。今は冬でシーズンオフということもあり、うるさいちびっ子もおらずガラガラで、その広い部屋を一人占めだ。

まったく今日は本当に大変な一日だった…。昔誰かが『何が起こるか分からないから旅なんだ…』なんてことを言っていたけれどまさにその通り。一寸先は闇である。

果たして明日からはどのような方向へ旅は動いていくのだろう。不安であり、ちょっと楽しみでもある。しかし、それこそが旅の醍醐味である…。

 

 

『お~い!夕食のじかんだぞ~!』

くそぉ、我ながらなかなかいい言葉で今日の旅行記を締めることができたと思っていたのに宿のおじいちゃんが呼んでいる。

 飯か…。飛び入り参加の僕にそんなもの用意されているわけないじゃないか…。そこまで求めたら罰が当たるってもの。偶然にも塀東で買っておいたポテトチップスがまだ残っているから、それを食べながら気の利いた締めの言葉でも考えて今日の旅行記を終わるとしよう。

『かずおー!飯だ~!聞こえてなかったのか~』

「えっ、だって僕の分はないんじゃ…」

『誰がそんなこと言ったよ!ちゃんとお前の分もあるから早く来いよ!』

「うぅ…」

30分前に飛び入りでやってきた客に夕飯まで出してくれるなんて。いったいこの人たちの親切心はなんなんだ

 

 食堂(というか外に木のテーブルが置いてあるだけの野性味あふれる場所)にはHappy一家ともう一組家族がおり、明らかに一人身の僕は場違いなのだが、体の半分がやさしさでできていると思われる彼らは、寂しくないようにと常にいろいろと話しかけてきてくれた。

『この魚はそこの川でとってきたそうです^^』

「そうなんですかHappy一家のおかあさま」

さすが青年の家だけあって料理も野性味あふれていたが、どれも抜群のうまさだった。

『え~なになに?日本人だって~?』

日本人はめったにこんなところまで来ないから珍しいのだろう。しばらくすると、料理の支度の済んだ宿の従業員の方々も集まり、全員が代わる代わる僕に話をしてきた。

『お前野球はすきか?』

「もちろんですとも。なんといっても日本の野球は世界一なんですから」

『じゃあこの選手しってるか?』

そういうと宿の若いお兄さんは携帯を見せてきた。

「え~と、達比修有…。誰?」

『知らないのか?Japanese No1 ピッチャーの』

「No1…。あ~ダルビッシュね!」

へ~ダルビッシュって漢字でこう書くんだ。というかなんで知ってるの。

『そりゃあ日本の野球は毎日テレビでやってるからな』

そういえば初めて台湾に行った時も、街中のカフェで楽天戦がながれていたっけなあ。

 僕が野球を知っていることが分かると、それまで明らかに僕のことを警戒していたHappy一家の息子とその友人(高校1年生)が食いついてきた。

『いちろ~いちろ~』(バッティングフォームを真似しながら)

「お~よくしっているじゃないのさ。」

『のも!のも!』(ピッチングの真似しながら)

「あはは!似てる似てる!」

『おがさわら!ガッツ!ガッツ!』(バッティングフォームを真似しながら)

「渋い!日本人でも日ハム(当時)小笠原のフォームを真似できるやつそんないないぞ」

『(自慢げに)お前は台湾人選手知らないだろう?』

「なにをおっしゃる。王建民阪神の林でしょ、ロッテの呉、西武の許に楽天の…」

『すげ~!というかなんでしってる!?』

もちろん台湾の高校生がこんな流暢な日本語を話すわけがないので一部フィクションの部分もあるが、ほぼ上記のような会話をしながら僕は食事を楽しんだ。

『かずおはよく食べるな~、よしかあさん!あれもだしちゃって!』

『あいよ~』

僕の大食漢ぶりに感銘をうけた宿のおじいちゃんが厨房の中に声をかけると、しばらくしてものすごくポッチャリした、南の島にいそうないかにも原住民一家のお母さんって感じの人が何やら持ってきてくれた。

『これはお祭りの時にしか出さない特別な原住民料理です^^』

原住民一家の肝っ玉母さんはほとんど日本語を話せないためHappy一家のお母様が通訳をしてくれる。

うまい!葉っぱに包まれた日本の粽みたいな料理だったが、さすがお祭りの時にしか出さない特別料理だけあって味は抜群だった。

『はおつーま?』

「?」

肝っ玉かあさんがおいしいかと聞いています^^』

「うん!めちゃくちゃおいしいです!はおつーはおつー」

『うんうん(肝っ玉かあさん満足げにうなずく)』

 

『よ~し!ご飯食べ終わったら夜の自然探検ツアーやるぞ~!』

お、なになに、その楽しそうな企画は?宿のおじいちゃん?

先ほども書いたように、この宿は「青少年自然の家」みたいなもので夕食後には健全な教育的プログラムが用意されている。そして青少年がほとんどいないこんな夜でも全員強制参加で行われるのである。

 

『さあ、それじゃあ俺のあとにしっかりついてこいよ~』

宿のおじさんは懐中電灯で照らしながら、我々を引きつれ宿の周囲にあるうっそうとした森の中に入っていった。

いやあ…、これ怖いぞ…。だってここ熱帯地方でしょ?出るんじゃないの?トラとかイノシシとか…。僕はHappy一家のお父さんの背中にコッソリと隠れながらみんなについていった。

しかし、そんなビビリな僕の不安に反して自然探検ツアーは非常に和やかな雰囲気で進んでいった。だって道端にある珍しい植物とか虫とかを紹介していくだけだもん。

基本的に説明は中国語で行われるので僕にはさっぱりわからないのだが、時折、Happy一家のお父さんが英語で説明してくれるので非常に助かる。本当によくできた一家だよねえ。

ただ、植物や虫の説明を1時間も聞いていると正直飽きる。周りを見回すと他のみんなも正直だれている気がする。なんとなくみんな反応が薄いのだ。そりゃ一部を除いてみんないい大人なんだから仕方ないといえば仕方がないのだが、気の毒なのは宿のおじさんである。せっかくみんなを楽しませようと企画したのに…。

そんな不穏な空気を察してか、おじさんは一方的な説明をやめ、だれ気味の我々に問いかけてきた。

『さあ、ここに1枚の葉っぱがあるんだが、誰か食べてくれる人はいないかな?』

一同『シーン…』

そりゃそうだろ。こんな怪しげな葉っぱを進んで食べたがる剛の者はいないと思うよ。

『さあ、そこのお父さん!息子さんに良いところをみせるチャンスだよ!』

『シーン…』

『おっ、そっちの高校生!若いんだからチャレンジしてみないか?』

『シーン…』

『ほれ!日本人!せっかく来たんだからいい思い出を作っていけよ!』

「シーン…」

『よおし決まった!じゃあみんな、今からこの日本人が葉っぱを食べるからよく見ておいてくれよ』

…。

みんなの無言の訴えは聞いておいて僕の「シーン…」は無視かよ。

しかし突然泊めてもらって夕飯までご馳走になってしまったからなあ、ここはおじさんの無理な要求にも答えてあげないと…。

基本的にこういった『参加者に何らかのものを食べさせて反応楽しむ企画』というのは非常に厄介である。食べた瞬間にその物の味を判断し、主催者の要求を正確にくみとり、それに沿ったリアクションを瞬時に行わなくてはならないのだ。

今回の葉っぱの場合、1.辛い 2.苦い 3.すっぱい 4.甘い の4つのパターンが考えられるわけだが、『甘いリアクション』は面白みがなさそうなので4番は独断で却下。苦い葉っぱは間違いなく毒があるため(なんといってもここは熱帯地方)2番もできれば避けたい。残るは1番と3番。どっちだ…。

『さあ日本人、一思いにこの葉っぱをかんでくれ!』

おじさんから渡された1枚の葉っぱ、心なしか僕にこれを渡すとき、おじさんの目が訴えかけてきていたような気がした。『頼むぞ…この場の空気を一気に暖める秀逸なリアクションだぞ…』と。

がぶり  ← 一思いに葉っぱをかんだ音

…。

うう… ん…?

これは…

…。

すっぱい?

うわぁ微妙だ…。すごくすっぱければリアクションもしやすいのだがこいつは微妙だぞ…。

うう…でもみんなが見ている。

みんなが僕のリアクションを待っている。

…。

…。

「う~わすっぱ、なんすかこれ~めっちゃすっぱいじゃないですか!おじさん始めに言ってくれないと困りますよ~」ぺっぺっ ← 吐き出す音

…。

一同『HaHaHaHaHa!』

おじさん『ハハハ!そうなんだ、この葉っぱ、実はすごくすっぱくて(ペラペラペラ』

やった…。やったぞ…。僕にもできたんだ!!

日本代表として醜態をさらすことなく見事に台湾人を爆笑の渦に巻きこんだ僕は1人心の中で勝利の雄たけびをあげ続けた。

しかし、そのリアクションが妙にツボに入ったのだろうか、この後しばらくみんなからいじられ続けることになった。

『かずお!お前の肩にスパイダーがっ!!』

「うおっ!」

『HaHaHa!うそで~す^^』

 

『日本人、そこの池の隅をよ~く見ていてくれ』

「池の隅?」

ピヨン! ← 蛙が飛び出してきた音

「ひえぇぇぇぇぇ!!」

『HaHaHaHa!!』

 

…。

いいんだいいんだ。みんなが笑ってくれればそれでいいんだ。みんなが笑ってくれるなら、僕はよろこんでピエロになってやる…。

 

さて、そんな大盛り上がりの爆笑企画は結局3時間以上(!)も続き、宿のおじさんが終了を宣言した時には23時をまわっていた。

疲れた…。そして眠い…。もう適当に締めの言葉を書いて寝る。

 

『は~い次は夜のカラオケ大会を始めるぞ~!』

…。

寝かせてはくれぬか…。

 

夜のカラオケ大会には、ほぼ強制的に参加させられた僕と、それに同情して付き合ってくれることとなったHappy一家のご両親が参加することになった(息子の高校生は逃げた)。

ちなみに僕はカラオケが好きではない。友人とならまだしもほぼ面識のない人たちと歌うなんて…。

しかも、現在この場には僕、Happy夫妻、宿のおじさんの計4人いるが日本人は僕1人であとの3人は全員台湾人。完全アウェーである。この状況では確実に『日本の歌を歌ってください^^』という要求がなされること必死である。

『よ~しそれじゃあバンバン歌ってくれよ~』

宿のおじさんはギターを持ち出し、気持ちよさそうに歌いだした。

なんの曲かはわからない(たぶん台湾の昔の歌)けど、みんなは楽しそうに歌っており、僕も眠気を堪えながら手をたたくなどして楽しんでいる雰囲気をかもし出すことに専念した。

このままいけば何とか歌わなくて済むんじゃないか?だっておじさんは日本の歌を弾けるとは思えないし、僕も手をたたいてものすごく参加している感じだし。いいぞ、このまま時が過ぎてくれれば…。

『よ~し次はHappy一家のお母さん歌ってみようか~!』

「イエ~イ!!」 ← 頑張ってテンションをあげている僕

『え~!?じゃあ○○をお願いします^^』

Happy一家の母のリクエストした曲がなんなのかわわからないけど、宿のおじさんは軽快にギターを弾きだした。

『はれわた~るひ~もあ~めのひも~』

…。

あれ?日本語?しかもどこかで聞いたことがあるような…。

『お~もか~げ~さ~がし~て~』

…。

おお?なんかこの歌知っているぞ…。

『な~だそ~う~そう~』

やっぱり。涙そうそうだ…。そういえば夏川りみって台湾では日本以上に人気があり、日本未発売のベストアルバムもあるとかないとか…。

『どう?日本の歌、うまかったですか?^^』

「えっ。ええ、すばらしかったですよ」

『よ~し次は本場の日本人に涙そうそうを歌ってもらおう!かずお~!』

きたー

おそれていた事態がついにきた~!『日本の歌をうたってください^^』の誘いが…。

さすがやさしいやさしいHappy一家。台湾の歌ばかりで僕が疎外感を感じていると感じ、とっさに日本の歌を歌ってくれたらしい。

そのやさしさ、残酷すぎるぜ…。

『さあかずお!歌って歌って!』

「ふ~るい~あ~るば~む~め~くり~」

『もっと大きな声で~!』

「あ~りがと~ってつぶ~や~いた~(´;ω;)」

僕は歌いきった。日本代表として頑張った。人生で一度も歌ったことのない涙そうそうを…。

『あらあら、日本の歌がきこえるわ』

宿の肝っ玉母さんが僕の美声を聞きつけやってきた。

『かずお歌上手ねえ』

「えへへ」

『じゃあもっと歌ってもらおうかしら?これ日本の歌集』

…。

肝っ玉母さんはぼろぼろに色あせた一冊の歌集を持ってきた。なんでも戦後すぐに発売された日本の歌集らしい。

戦前、日本に統治されていた台湾では、終戦後も日本語を話す人は多かった。特に原住民の間ではそれが顕著であり、中国語が公用語となった戦後にも日本語の歌集などが売られていたらしい。ある意味これは貴重な歴史的資料なのだが、それが半世紀の時を越えて偶然この地にやってきた日本の青年を苦しめることになろうとは…。

『はい!じゃあかずおがうたいま~す!(ジャカジャン♪』

「あのふ~るさとへ~かえろかな~(´;ω;)」

50年も前の歌集なんかに僕が知ってる歌などないはずなのだが、なぜか一曲だけ、小学生の頃にドラえもんで流れていて知っていた歌(ほんわかキャップの回)があり、僕は泣きながらその曲を歌い続けた。

そして、時は流れ、台湾奥地の楽しい楽しい夜ののどじまん大会はようやく幕を閉じた。時計の針は午前1時をまわっていた…。