韓国と古墳

 


博多港を出港した高速船は、東シナ海の大海原を疾走していく。そのあまりの揺れっぷりに、僕は嘔吐寸前だ。

湯布院でのアルバイト中、博多から韓国の釜山へとわずか3時間ほどで行けるという情報を得た僕は、4日間の休暇をもらうと、早朝に湯布院を脱出し、福岡から釜山行きの高速船へと乗り込んだ。

韓国にあこがれを持ったのは中学生のころだったかと記憶している。父親が仕事の都合で頻繁に韓国へ出張していた。当時、たいして海外へ興味のなかった僕だったが、父親の話を聞いたり、持ち帰ってきたパンフレットを見せてもらったりする中で、俄然韓国に興味を持った。なんと韓国には日本と同じような古墳があるらしい。そして、京都太秦広隆寺にある弥勒菩薩像(アルカイックスマイルのあれだ)の原型とも言える仏像もあるらしい。日本の歴史に大変興味のあった僕は、日本と韓国の歴史的なつながりに感動し、いつの日にか古墳をこの目で見てやろうと夜な夜な思ったものだった。

 

重度の船酔い患者を満載した高速船は、日が暮れるころになりようやく釜山港へ入港した。客はみな、さしずめゾンビのようにフラフラしながら下船していく。なんて怖ろしい交通機関なんだ…。

釜山港からバスにのり10分ほどで釜山駅へ。駅前広場にあるビジネスホテルで早速宿泊交渉だ。僕は、大学4年間、第3外国語として韓国語を履修していた経験を持つ。普通は2回生で終えるはずの授業を諸事情で4回生の後期まで取り続けた男の本気の韓国語がいまベールを脱ぐ。

「あにょはせよー!!ぱんいっすむにか?」

『あーにほんじん?こんにちは。一泊でいいのですか?』

やべえ…。フロントの冴えないおじさんの日本語の方が格段に上手だ。僕は必至で韓国語で伝えたのに、返ってきたのは流ちょうな日本語だった。

おまけに支払いの段階で、6万ウォンを間違えて千ウォン札6枚で支払おうとしておじさんに笑われた。アホな日本人だと思われたんだろうなあ。

案内された部屋は韓国独特のオンドル使用の素敵なお部屋だった。テレビをつけると「冬のソナタ」が放送していた。本場のペヨンジュン氏に大興奮である。

 

船酔いもさめ、おなかがすいた僕は、すっかり夜も更けた釜山の街へ繰り出した。当時の僕は、地元の人が立ち寄りそうなお店で食事しなくてはと意気込んでいた。

海外一人旅は今回で2回目。旅人としてはまだまだ初心者である僕は、食事は必ず地元民の集う店に入るという自分ルールを設けていた。コンビニ?フードコート?えっ?マクド?そんなちゃらちゃらした店に入るなんて、旅人とは言えないぜ、という謎の使命感である。なんと若かったことか。これが数年後にヨーロッパへ行くようになると、なにも考えずにマクドに直行するようになるのだが。そこの境地に至るにはまだまだ時間がかかりそうである。

釜山駅前はビルも立ち並び、さすが韓国第2の都市だと思わせるなかなかの発展ぶりなのだが、一本通りを入ると街灯も少なくとってもうらぶれた雰囲気に変わる。その通りの一角に、いかにも地元の人しか来なさそうな食堂を発見した。お店の中をコッソリのぞくが、お客らしき人は一人しかいない。地元客でワイワイにぎわっているお店も入りづらいが、誰もいないお店はそれはそれで入りづらい。「地元民の集う店に入るという自分ルール」を設けたわりに、なかなか思い切れない気弱な男。お店の前をいつまでもウロウロしてしまう。

どのくらいたったであろうか。これではいけないと自分を奮い立たせ、ついに目についたお店のドアを開ける。

「あ、あにょはせよー!」

『!?』

お店の中には店員と思われる女性が一人、そして客と思われる男性が一人。突然現れた珍客に2人もびっくりだ。

「め、めにゅぱんいっそよ?」(メニューはありますか?)

『お、おう!めにゅー!』

店員と思しき女性が壁を指さす。どうやらメニューが書かれているらしい。当然ハングル文字オンリーのメニューらしきものの中からビビンバの文字を見つけ注文する。4年間の韓国語履修が無駄ではなかったと実感した瞬間である。

注文を終え、ちょっと一息ついた僕は、あらためて店内を見回してみた。

なんとも家庭的な雰囲気である。テレビではバラエティー番組が流れており、一般家庭の夕食へお邪魔しちゃいました、みたいな感覚におちいる。隅で食事をしている先客も、まるで自分の家で食事をしているかのように部屋着でまったりとしている。

…。あれ?

ここ、もしかしたら一般のお宅なんじゃね?食堂じゃないんじゃね?

そういえば、店先に看板がかかっていなかった気もする。

まさかのお宅訪問?

店員と思しき女性が持ってきた本場のビビンバは、それほど辛くもなく、とてもおいしかった。食事中、店員と思しき女性は、客の男性のと大変親密そうに話していた。まるで夫婦のように…。

その姿を見て、「あ、これ食堂じゃない。一般家庭や。」と察した僕は、大変なことをしでかしたという焦りから、ビビンバをかき込み、テーブルに1万ウォン札を置いて、逃げるようにお店を後にしたのであった。

 

翌日、お世話になった駅前のホテルをチェックアウトし、釜山バスターミナルから慶州行きの高速バスに乗り込んだ。かつての新羅の都だったという慶州。日本でいえば京都的なポジションのこの街こそ、僕が中学生のころから訪問を切望していた場所。冒頭にも述べた古墳がある街なのである。このために、古墳のために韓国へやってきたといっても過言ではない。

余談になるが、駅前ホテルをチェックアウトする際、日本語が堪能なフロントのおじさんが、目にくっきりとクマを携えて業務を行っていた。きっと徹夜明けなのだろう。韓国の格差社会を見た気がした。

さて、1時間ほどで到着した慶州は、釜山を三割ほどグレードダウンさせたような、まさに地方都市というたたずまいのする街だった。大通りから一本入ると未舗装道路も目立ち、それが原因なのか、街中が砂埃っぽかった。遠くの山は木々があまり生えていないいわゆるはげ山で、その荒涼とした風景は大陸を思わせた。そうだ、東の果てとはいえ、ユーラシア大陸の一部なのだ。ここをまっすぐ行けば、ヨーロッパにも行けるのである。(北朝鮮が途中にあるけど。)

さて、『地球の歩き方』に載っていたゲストハウスへチェックインした僕は、慶州歴史なんとか公園へと向かった。ついに念願の古墳とご対面である。

慶州駅から路線バスで10分ほど。芝で覆われた一帯には、お茶碗をひっくり返したような古墳(円墳という)がそこら中に点在していた。ポコポコポコっととにかく無数の古墳が点在しているのである。

…。

これが見たかったのだろうか?

このポコポコしたお饅頭みたいなものを見るために、僕ははるばる韓国までやってきたのだろうか?

念願かなった感動よりも、これを本当に見たかったのか、という疑念の方が強くなった僕は、古墳をペタペタさわり、古墳と記念撮影をし、古墳のとなりでお菓子を食べ、古墳との時間をとても満喫した。そして満足すると、ゲストハウスへおとなしく帰った。

これ、たぶん奈良でもできたな…。

 

翌日、世界遺産に登録されている名刹、仏国寺を見学したのち、釜山へ戻った。

後から知ったことだが、あの古墳群も世界遺産に登録されていたらしい。まじかよ。二度と行かねえぞ、きっと。

なんとも疲れた僕は、宿探しも面倒くさくなり、初日にもとまった駅前のホテルへ入っていった。

フロントには例のおじさん。

昨日よりもさらにくたびれており、客が来たにもかかわらず、イスから立ち上がることができていなかった。まさかの3連続徹夜なのだろうか。韓国の格差社会を見たような気がした。

 

夜、繁華街のCDショップに立ち寄り、いくつかCDやDVDを購入した。レジの若いお兄ちゃんとお姉ちゃんがが韓国語で何やら言ってきたので、日本人だから韓国語わからないという意味で「ちょぬん、いるぼんさらみえよ」(僕日本人なんです。)といったところ、二人はニヤニヤしながら僕を一瞥してきた。もっと韓国語をしっかり勉強すればよかったなあ、と思った瞬間だった。

 

初上陸の韓国は、思った以上に旅しやすかった。

言葉が多少わかるということも要因の一つだろう。そして、やはり韓国料理になじみがあるということも大きいのではないだろうか。フードコートやコンビニに行っても、名前さえわかれば、どんな料理か大体想像がつく。食べたいものを選んで食べることができる。これはストレスを軽減する大きな要因となる。

 

帰国の日、船を待っている間、釜山港の食堂でクッパを食べた。「韓国風おじや」というべき料理だったが、やはりとてもおいしかった。

今度はソウルへ行って、焼き肉をたくさん食べてみたいなあと思いながら船へと乗り込んだ。

そして、行きとは打って変わって大荒れとなった東シナ海を進む高速船は半端ないくらい揺れた。最後に食べたクッパが胃から出たがっているのを必死でなだめながら、僕は帰国した。

 

卒業旅行 高松24時

本来、大学生の卒業旅行というのは、ヨーロッパだハワイだと海外へ行くことが多いようだ。社会に出る前に、学生生活最後の思い出として、気心のしれた仲間と海外旅行へ…。よく耳にする話である。では、大学にほとんど友達のいない人間は、いったいどうしたらよいのであろう。

僕は友達が少なかった。それ故、大学時代、旅行といえばほとんどが一人旅であった。それはそれで大変有意義で楽しい体験だったのだが、卒業を前にした1月、ふと思った。「僕も誰かと卒業旅行をしてみたい」と。

僕は毎年、年末年始の帰省の際には、青春18きっぷを使い、鈍行列車で大阪から伊豆まで移動していた。当時の青春18きっぷは1枚11,500円で販売されており、5日間、JRの鈍行列車が乗り放題になる。1日あたり2,300円の計算だ。新幹線を使って大阪から伊豆まで帰った場合、往復でおよそ2万円かかる。それが青春18きっぷを使えば、2,300円×2日=4,600円。なんと15,000円近くも得をする。貧乏学生の涙ぐましい努力である。残った3日分は、旅行に使うこともあれば、金券ショップへ売り抜けることもあった。

さて、今年も無事に青春18きっぷで帰省した僕は、青春18きっぷの使用期限が切れる2日前に、まだ3日分残っていることに気が付いた。金券ショップへ売りに行くにしても、使用期限残り2日で3日間分余った青春18きっぷを買ってもらうのはどう考えても不可能なことだった。すでに元は取っているとはいえ、売りぬくなり使い切るなりしないともったいない。どうしよう…。

そこで、僕はふと思い立った。

この切符を使って卒業旅行へいこう!思い出を作ろう!

思い立ったが吉日である。

僕は吉田に声をかけにアパートの部屋を出た。

 

吉田という男は、僕と同じアパートの住人であり、大学生活における数少ない友達の一人である

僕と同じ法学部の彼は、僕と同じくそれほど友達が多くなく、いつも学内を一人で歩いている。そして、僕と同じく女の影が見えない。僕と共通点があったからこそ仲良くなれたのかもしれない。いわゆる陰キャである。

インターホンを押すと、夕方の6時だというのに吉田は部屋から出てきた。普通の大学生なら、この時間はバイトだ飲みだと忙しいはずなので、この時間に部屋にいる吉田は明らかに友達が少ない。

「明日、さぬきうどんをたべにいこう。」

『いいけど、何時に?』

「あさの5時出発」

『おっけー。じゃあな。』

僕は目的地も告げていないのに、2つ返事でOKする吉田は、やはり陰キャなのだ。

 

 

5:40

旅行当日。僕はさっそく寝坊した。

昨日5時出発と言っておきながら、すでに30分以上すぎている。

いつもならば、このまますべてを忘れて再度睡眠に入るのだが、たとえ相手が吉田であったとしても、こちらから誘ったからには起きなくてはならない。なんといってもあれほど楽しみにしていた卒業旅行なのだ。

意を決してインターホンを押すと、寝起きで眠そうな吉田が現れた。こいつも寝坊してやがった。

「これから香川へいくから」

『あ、そう。何で?新幹線?』

「鈍行電車で」

『鈍行?何時間かかるよ?』

「4時間くらい?」

『ああ』

いま初めて、今日の行先を告げられたにも関わらず、普通に付き合ってくれるあたり、吉田は変わっている。そして当日の朝に行先を告げるあたり、僕もまた変わっているのである。変人2人は千里山駅から阪急電車に乗り込んだ。

 

6:00

阪急梅田駅で下車し、JRの大阪駅へ。通勤ラッシュ前なので、それほど混んではいない。

ここからは青春18きっぷが効果を発揮する。

2人で改札をくぐり、ホームへでる。ここからは、新快速へ乗り、西を目指していく。

 

8:00

僕たちが乗車した新快速は「播州赤穂行き」なのだが、その少し前の姫路で途中下車することにした。姫路城を見るためだ。

関西へ出てきて4年。恥ずかしながら、僕たちは世界遺産・姫路城を訪れたことがなかった。ホントに友達がいないんだね、2人とも。

駅からまっすぐに伸びる一本道の先に、姫路城の天守閣が見える。歩いて10分くらいだろうか。そう高をくくって歩き出してはみたものの、結局ついたのは30分後だった。まさかのタイムロスである。

僕たちの本来の目的地はあくまで香川なので姫路城によっている暇はないのだが、ここまで来たからにはぜひ城内へ行きたいものだ。

チケット売り場へ行くと、1人500円という看板がかかっていた。

えっ?入場料かかるの?

『お前いくら持ってる?』

「え~とね。」

僕の財布の中には32円しか入っていなかった。

「吉田は?」

『74円』

二人あわせて106円では姫路城はおろか、売店でジュースを買うこともできそうにない。そもそも、さぬきうどんも食べられないのではないか。

所持金32円と74円で香川まで旅に出る。

若さとは怖ろしいものなのである。

 

9:30

姫路駅から普通列車に乗り込むと、20分ほどで相生駅へ着いた。

新幹線が止まる駅だが、駅前にはなにもない。本気でなにもない。

乗り換え時間の30分で駅前を散策しようとしたが、わりと本当に何もなかったので駅のホームで待つことにした。

相生という街へ来ることは今後2度とないと断言しておく。

 

11:00

相生を出発した電車は、田んぼと山以外まるで見当たらない風景の中をゴトンゴトンと走っていく。くそ田舎である。

なんだかんだ、相生から1時間以上狭いボックス席に座っている。僕も吉田も、とてもお尻がいたいのである。

 

11:30

ようやく到着した岡山は、ビルが立ち並び、想像以上に都会だった。相生とは違うのだ。

あさからずっと列車に揺られ、とくに会話もなくいい加減飽きていた僕たちは、きび団子を食べようという気すらおこらず、すぐに乗り換えホームへ移動した。

ここからは快速マリンライナーにのって瀬戸内海をわたる。

瀬戸大橋を渡れば、そこはさぬきの国。

お遍路さん以来の四国上陸だ。

 

12:50

高松駅へ着いた。ここまでですでに7時間以上もかかっている。こんなに電車に乗った経験、吉田はきっとないのであろう。さっきからずっとお尻を気にしている。宗谷本線や伊豆までの帰省で長時間乗車に慣れているはずの僕のお尻も限界を迎えつつある。

さて、本題のうどんだ。うどんのために、わざわざ高松まできたのだから。

しかし、その前にまずはATMへ行かなくてはならない。なんといっても僕たちの所持金は106円しかない。ここまで飲み物を買うことすらかなわず、脱水症状気味でもある。

早く郵便局をさがしださなければ、僕たちはうどんを食べず大阪へとんぼ返りすることになる。

 

13:00

大都会 高松は相生とは違いそこら中に郵便局がある。ようやく大金(5,000円)を手にした僕らは、適当に目についた高松駅近くのうどん屋さんで本来の目的を果たした。この一杯、このわずか10分のために7時間かけてはるばる大阪から来たのだ。僕たちは阿保である。

おなかもいっぱいになったぼくらだったが、あらためて帰路のことを考えて大変気が重くなった。

これからまた7時間かけて大阪に戻るのか。その行為に意味はあるのか。あまりにも辛くないか。だって、お尻が痛いんだもん。

 

13:30

もはや青春18きっぷで大阪へ戻るなんて考えられない。どうして7時間も列車に乗らなければならないのか。僕たちはドMだったのか。自問自答を繰り返す僕らは必至で代替案を考えた。

岡山から新幹線作戦は所持金の問題で却下だ。

高松から高速バスという手もある。片道3,200円だが、お尻のダメージが躊躇させる。値段もはっきりいって高めだ。

どうしよう…。

あっさりと万策尽きた僕らは、高松駅構内にある旅行代理店のお姉さんに泣きついた。

 

13:45

旅行会社のお姉さんは、陰キャである僕たちにも優しく、そして「ジャンボフェリー」の存在を教えてくれた。

高松港から神戸港までを3時間で結んでいるというジャンボフェリー。船内でゴロゴロしていれば神戸までいけるという夢のような乗り物だ。しかも片道1,800円ときている。お姉さんが神に思えた。

 

 

 

14:00

旅行代理店のお姉さん(神)に言われるがままジャンボフェリーを予約した僕たちにもはや死角はなかった。

高松市役所の展望ロビーで絶景を満喫したあとは、金毘羅さんへ向かおうではないか。高松駅から土讃線に揺られていこうではないか。

なんといっても、ジャンボフェリーの出発は深夜1時。

大いなる暇つぶしの始まりである。

 

16:00

3年ぶりとなる金毘羅さんは相変わらず階段が多かった。

陰キャで運動不足の僕たちだったが、さすがにまだ22歳なので、本殿までは難なく到着できる。しかし、金毘羅山には奥の院という最終兵器が用意されていた。さらに数百段もの階段を登らなくてはいけない。あたりは薄暗く、戻ってくる頃には真っ暗になっているかもしれない。遭難の危険性もある(たぶんない)。

それでも行かなくてはいけない。だって僕たちは観光客だ。観光客の義務である「観光」を最後までやり続けなければならないのだ。

 

16:30

観光客としての義務を果たすべく一心不乱に上り続けた僕たち。若さというのは素晴らしいもので、ついに金毘羅さん奥の院まで階段を登り切った。

奥の院からは讃岐平野が一望できた。薄暗く、しかもガスがかかっているためお世辞にも絶景とは言えないが、この達成感は僕ら二人にしかわからないのだ。

平日のこんな時間に奥の院へ登るやつなど僕ら以外いないので、あたりには物の怪の気配がした。吉田と二人、こんなところで物の怪に襲われ人生を終えるのは本意ではないので、さっさと下山することにする。

 

18:30

高松駅へ戻ってきた。

冬とは言え、2時間近くも登山をしているとやはり汗をかく。

3日に一度は必ずお風呂に入る清潔感のある僕らは、汗臭い自分がとにかく許せないので、四国随一の大都会 高松で公衆浴場をさがす。

というか、こんな街中にあるわけなかろう…。

『ああ、お風呂?そこの道まっすぐ行って、2本目を右に曲がったとこにあるき!』

吉田がダメもとで聞いた駅前観光案内所のおじさんは、あっさりと行き方を教えてくれた。あるんかい。

 

19:00

おじさんに教えてもらった公衆浴場は、イメージ的には東京の下町にありそうな、昭和の香りのする昔ながらのお風呂で、中は地元のおじさんたちでいっぱいだった。21世紀の世の中に、いまだにこんな場所が残っているのか。と、感心しながら湯船につかっていると、なにやら吉田がもじもじしている。

店を出て吉田に訳を聞いてみた。

『俺の隣にいたおじさん、ロッカーのカギを足首につけていたんだぜ』

どういう意味か分かりかねる僕に、吉田はうろたえた声でつづけた。

『あれはホモだ…。ロッカーのカギを足首につけているのは、この後OKのサインなんだ…』

吉田はホモ界隈の事情に詳しいのである。

そして、OKサインのおじさんをみてもじもじしていた吉田は、まさかホモなのでは?

 

20:00

うどんを食べてから7時間以上経過した。育ち盛りの僕たちは空腹で我慢の限界だ。高松一の繁華街、瓦町でお好み焼き屋風居酒屋を発見し、さっそく入店だ。

大学の4年間、数少ない友人の一人としてなんだかんだ交流のあった吉田。彼と酒を飲みかわすのは実は初めてだった。

お互いの部屋を訪れ、くだらない話ばかりしていた4年間。

マリオカートを完全クリアするまで寝ないと心に決め、結局朝の8時まで12時間以上もプレイ。

文科省のホームページからリンクをたどってエッチなサイトにたどり着けるのか」という真面目な実験を徹夜で行ったこともあったっけ。

吉田が就職活動をしている時には、彼の合格を祈願し、応募書類にのせる写真をインパクトの強いものにしてあげようと、真夜中の大学構内に忍び込み、男らしい写真を撮ったこともあった。

吉田との出会いは入学式の翌日。アパート全体が詐欺にあったことで生まれた不思議な縁だった。

 

 

22:00

話はつきなかったが、お好み焼き屋を追い出された。四国一の大都会 高松にあるまじき、早い閉店だ。ジャンボフェリーまでまだ3時間もあるというのに、高松の街へ放り出されてしまった僕らは、行き場を失くしふらふらと街をさまよい続けた。

 

23:00

陰キャである僕たちにとって、夜の蝶の舞うお店はハードルが高い。仕方がないので、コンビニで飲めもしないチューハイを買って、高松駅前の港で乾杯だ。そして酒に弱い2人は案の定悪酔いした。

僕はお酒がとても弱いが、吉田も同じくらい飲めなかった。吉田がゼミの飲み会で飲みすぎてつぶれ、関大前の居酒屋まで、なぜか僕が迎えに行ったことがあった。いいだけ酔っぱらった僕らは、海に向かって放尿するという暴挙に出た。

吉田は地元の信用金庫への就職が、そして僕は大学院への進学がそれぞれ決まっている。僕たちの将来を台無しにしかねない放尿という行為。

酔っぱらった僕たちはそんなことも忘れ、青春のひと時に酔いしれていた。

 

 

0:00

ようやく時間になり、高松駅前からジャンボフェリー専用バスに乗って、出航する港へと出発だ。

『そ~らとう~みをわ~た~る~』

バスの車内で鳴り響く社歌が頭から離れない。

『ジャンボ~ふぇり~』

 

1:00

『ジャンボ~ふぇり~』

社歌が鳴り響く船内。もはや洗脳である。

『ジャンボ~ふぇり~』

完全に洗脳され、口ずさむ吉田をしり目に、僕はカーペット敷きの2等室で横になった。そして出航の汽笛を聞くことなく、眠りに落ちた。

 

 

4:00

神戸港入港までぐっすり眠ってしまった。

隣では洗脳を受けた吉田がずっと『ジャンボ~ふぇり~』と繰り返していた。

たぶん出航からずっとうたっていたのだろう。素直に不気味だ。

神戸港から三ノ宮駅まで、早朝の神戸市内を歩いていく。

思えば神戸に来たのも初めてなような気がする。

まだ阪神大震災から10年ちょっとしか経過していない。それでも、神戸の街は建物であふれていた。

 

 

5:40

三宮からは始発の阪急神戸線で梅田へ。梅田からは阪急千里線で、ようやく関大前に戻ってきた。おなかをすかせた僕らは、関大前通りの行きつけの松屋で一服。

平日の朝から松屋でぐだぐだ。こんな贅沢な時間は、学生時代にしか送れないであろう。

松屋をでて、早朝の千里山キャンパスへ。僕たちの青春の4年間がつまったキャンパスを通ってアパートへ戻ろう。昼間とは違い、まったく人のいない広大なキャンパスはとても新鮮だった。

アパートについたのは、奇しくも昨日出発した時間と同時刻。

ピッタリ24時間。他の人とは違った、僕ららしい卒業旅行であった。

 

 

続 北國紀行 その8 白き世界で

真冬日を体験したい。

ただそれだけの目的で函館を訪れたのは、前回の旅から半年後の2月。

仙台の友人宅から新幹線と特急列車を乗り継ぎ函館へ。

そして気まぐれで下車した木古内駅で大いに後悔した。

なんとなく面白そうという理由で降りたはいいものの、駅前には本当に何もなかった。それならばすぐに後続の列車へ乗ろうと時刻表を見てみると、次の列車は2時間後。

乗り継ぎに失敗したため、なにか面白いものはないかと木古内の街を彷徨うが、何度彷徨っても何もない。どうあがいてもないものはないのだ。あるのは路肩に積み上げられた雪の塊だけで、1メートル近く積み上げられた塊は、僕の身も心もいっそう寒くさせた。これが真冬の北海道なのである。

極寒の木古内の街を2時間近く彷徨い、ようやく到着した列車に乗り込んだ時の感動は相当のものであった。列車の車内と言うのはなんと温かいことか。無駄に途中下車した哀れな僕が、これほど快適な空間にいてもよいのだろうか。

と、よくわからないことを頭の中に思い浮かべている間も、列車は函館へと向かっていく。

 

翌日、雪の舞う中を旅行者の義務である観光へ出かける。

気温は1℃。最高気温が氷点下になるのが真冬日の条件なので、今日は残念ながら真冬日体験失敗である。

それでも、雪がびゅーびゅー吹き付けてくる中を歩くのは、温暖な伊豆出身の僕からすると苦行であり、もうこれ真冬日ってことでいいんじゃない?と思うのである。

しかし、雪の降り積もった真っ白な函館の風景と言うのも、大変美しいものである。函館山の麓に立ち並ぶ教会群を歩いていると、ヨーロッパにでも来たかのような錯覚に陥る。

 

すてん!

 

道路に降り積もり、凍結していた雪の塊の上に足を置いた瞬間、見事に転んでしまった。しかも地元のおじいちゃんたちがおしゃべりしている目の前で、である。おじいちゃんたちは気を使って何も触れないでいてくれたが、恥ずかしさでいっぱいの僕は、「えへへ、ころんじゃった💛」とアニメのヒロインが言いそうなセリフを思わず口走ってしまいより恥ずかしさを増幅させてしまったのである。

雪国の洗礼である。

夜になり、函館に来た観光客の義務である夜景観賞に出かける。もちろん一人でである。相変わらず雪の吹き付ける中美しき夜景を眺めていると、真面目に凍死するんじゃないかと言うくらいに寒い。しかし、夏の夜景とは違い、雪で白く染まった函館の街を彩る夜景はとてもきれいで、このまま息絶えても構いやしないぜと言う気持ちになってくる。しかし、女子と一緒にならともかく、男一人で夜景を眺めながら死んでいくというのはあまりに恥ずかしきことなので、なんとか我慢しようと思う。

とにかく、冬の夜景と言うものも、夏の夜景に負けず劣らず美しい物なのである。

 

また翌日。列車を乗り継ぎトラピスト修道院へやってきた。

夏のさわやかな頃とは違い、どんよりとした曇り空の中を修道院へと歩いていく。

並木道の両側にはかなりの雪が積もっており、試しに踏み入れてみると膝ぐらいまで埋まってしまう。これぞ北海道である。

ためしに、ばふっと雪の上に飛び込んでみたい衝動にかられたが、ひとりでやるにはあまりに恥ずかしいのでおとなしく自撮り写真で我慢しておく。

修道院前のお土産物屋さんにある気温計を見てみると、昼の11時で気温はマイナス1℃。真冬日である。これこそ僕が体験したかった世界。しかし、思ったほど寒さは感じなかった。それはきっと、昨日の夜景観賞で生死を彷徨うほどの寒さを体感したからであろうか。

その後も、雪の中にずぼずぼ足をいれて遊んでいたところ、案の定寒くなってきたので、おとなしく帰ることにした。

並木道を駅へと向かうと、海の向こうに雪化粧した函館山が見える。その姿は、とても美しく、寒い中来てよかったなあという気持ちになる。

冬の北國も、やはりいいものなのである。

 

 

続 北國紀行 その7 遠野での話

青森からさらに南下をつづけた僕は、ついに岩手県へ侵入。

昨年も訪れた民話の故郷遠野を再訪だ。

 

遠野では、例の宿で2泊3日を過ごし、あいかわらず姨捨山やち●こをかたどった神様を眺めて満喫したのだが、2日目の夜にこんなことがあった。

夜の雑談タイムの時、突然怖い話になり、なんとなくの流れで、カッパ淵へ行くことになった。メンバーは僕と、年上の青年。女子もいないのによくも行く気になったもんだ。でも、旅に出るとテンションが上がってしまうよね!

 

何が楽しくて野郎二人で肝試しをしなくてはいけないのか。そんな疑問すら浮かばないくらいテンションが上がっていた僕たちは、「うえーい」となれない奇声をあげながら、真っ暗なあぜ道をカッパ淵目指して歩いて行った。

カッパ淵はお寺の境内を抜けた場所にある。

山門を抜け、境内に侵入すると、なにやら本堂から女性たちの声が聞こえてくる。

見つかって面倒くさいことになっても嫌なので、そろりそろりと境内を抜けていく2人。

カッパ淵はこんな夜中に訪れる場所ではないので当然真っ暗闇。ライトすら持ち合わせていないダメダメ系男子である僕たちは、とにかく光を求めて、カメラのシャッターを切りまくり、フラッシュをたかせまくった。阿保である。

カメラをぱしゃぱしゃしながら、カッパ淵を進む阿呆ども。

「あれ?」

すると突然、年上系男子が突然歩みを止めた。

「どうしました?」

「ここだけシャッター降りなくない?」

何を言っているのだろうこの人は、と思いながら僕もシャッターを押してみるが、ある一定の場所だけおりない。えっ、なにこれ。おばけ?

なんだか怖くなってきてしまったダメダメ系男子たちは、名誉ある撤退を決意。

女性の話し声が響く境内を、来た時と同じように、そろりそろりと抜け、来た時とは真逆の沈み切ったテンションで宿へと急いだのである。

 

さて、宿にもどり、ことの顛末をオーナーさんに話すと、オーナーさんはつぶやいた。

「あれ、あそこのお寺って女性住んでたっけ?」

「…。」

「それに、今日は法事で、だれもいないはずだけどなあ」

「…。」

怖ろしくさのあまり、ぶるぶる震えだすダメダメ系男子たち。

きっと、宿のオーナーさんが僕たちを怖がらせようとしているだけさ。きっとそうさ!お化けなんてうそさ!

そう自分に暗示をかけ、冷静さを取り戻した2人。

しかし、部屋にもどりデジカメの記録を見てみると、なにやらオーブがたくさん映っており、お化けは本当にいるんだなあ、と実感し、またぶるぶると震えたのである。

そして翌日の昼間、懲りずにカッパ淵を訪れた僕は、シャッターが下りなかった場所に小さな祠を発見し、お化けの存在を信じるしかなくなったのである。

 

お化けとともに過ごした3日間ののち、僕は仙台に行き、中学校時代の友人とグダグダして過ごした。

彼の大学へ出向き、鮨や牛タンを喰らい、夜遅くまでパワプロで遊ぶ。

そして、いい具合に昼夜逆転したあたりで、旅を終えることにした。

 

合計で16日ほど。

まったく予定も決めず、気の向くままにぶらぶらと。

なんとも自由な旅だったなあと思いながら、仙台港から帰りのフェリーに乗り込み、大阪へ戻ったのである。

 

 

続 北國紀行 その6 青森という街の話

青森へはフェリーで津軽海峡を越えてみることにした。

なんと、青春18きっぷでは、青函トンネルを通過することができないのである。なんとも不便な切符なのだ。

 

さて、函館駅から路線バスに乗り、函館港へ到着した僕は、さっそくフェリーの切符を購入。いよいよ乗船だ。

思えば、旅の中で船に乗るのは初めてのことであった。

飛行機も列車も、バスもレンタカーも利用したことがあったが、船だけは未経験だった。ついに一線を越えたと言っていいだろう。

フェリーには座席と、横になってもよいカーペット敷きの場所、その2つがあり、この時点で、あの悪夢のような深夜バスとは違って天国のような乗り物であると確信した。

9月の平日ということもあり、乗船客もまばらで、思いっきり足を延ばして寝転んでいられるこの快適さよ!

津軽海峡は波もそれほど高くはない。だからなのか、ゆれもほとんどなく、船酔いの心配も全くない。

仮に酔ったにしても自由にトイレに行ける。

行きたい時にトイレに行ける、この自由さは深夜バスでは考えられない。韓国と北朝鮮くらい自由度に差があると言っていい。管理社会は僕には合わないのである。

3時間の船旅も全く苦ではなく、船はあっという間に青森港へ入港した。

 

青森港から青森駅まではどうやらバスが出ているようなのだが、倹約家の僕は徒歩で行くことにした。そして、当然のように迷子になった。

グーグルマップもない時代に、紙の地図すら持っていない状態で、よくもまた歩こうと思ったものである。

住宅街に迷い込み、これはさすがに遭難するだろう、と命の危険を感じた僕は、目についたセブンイレブンに入り、お姉さんに泣きついた。

 

青森駅へはどのようにいけばよろしいのでしょうか(泣)」

「あー、青森駅はー、▲&$#&*&よお」

「えっ?」

「あー、青森駅はー、そこの$&#からぁ▲&$#&*&よお」

「えぇ…」

 

青森弁といえば、いわゆるズーズー弁で、かなり聞きづらいということは僕でも知っている。幕末のころ、薩摩藩津軽藩で言葉が通じなかったというのは有名な話である。

しかし、21世紀のいま、まさか青森県人の話す言葉を聞き取ることができないなんて、信じられない。

しかも、僕が会話しているセブンイレブンのお姉さんは、茶髪でネイルがっつりのナウなヤングである。

おばあちゃんではない。

ナウなヤングなのである。

まるで都市伝説のような話なのだが、これは現実である。受け入れなければならない。

 

何度かの会話の末、ナウなヤングのお姉さんの言葉から、どうにか「バス停」というワードを聞き取ることに成功した。おそらく、目の前のバス停から青森駅行きのバスが出ているのだろう。

こんなことならば、青森港から直接バスに乗った方が早かったのではないか。

しかし、リアルな青森県人に出会うという貴重な経験を積めたことに、僕は感謝しなくてはならないのである。

 

 

続 北國紀行 その5 函館という街の話

ニセコから丸一日かかってようやく函館についた。

函館を始めて訪れたのは、高校の修学旅行の時だった。

自由行動ということで、女っ気のない陰キャ男子4人で回ったわけだが、おしゃれな港町なんぞ陰キャ野郎には似合わないはずなのに、僕は函館という街がとても気に入った。

坂の上から見る港の風景、本州ではあまり見ることのできない教会群はとてもすばらしく、そして函館の夜景は、いままでの人生で見た風景の中で一番美しかった。

 

2度目の訪問は大学2回生の夏。青春18きっぷで大阪から鈍行を乗り継いで旅した時の終着点が函館だった。本当は2泊ほどして函館を満喫するはずだったのだが、途中の東北で時間をつぶしすぎたため、函館に到着したのは大阪へ帰る飛行機が出る前日の午後6時。闇夜に浮かぶ函館の街を、一人ふらふらしただけで終わってしまった。なんとも消化不良の旅であった。

 

そして今回、3度目の訪問で、ついに3日間という、函館の街を満喫する時間を得たのである。

 

函館で僕が一番好きなのは、八幡坂から見る港の風景だ。

函館駅から歩くこと40分ほど。海に面した大きな道路から山に向かって一直線に伸びる上り坂。その坂をひいひい言いながら登りきる。

坂の上から後ろを振り返ると、そこには美しい港町の絶景が広がっている。

夏の晴れた日等はさらに美しい。冬は真っ白な風景も美しいのだが、雪で転んだこともあるので、やはり僕は夏の方が好きだ。

坂のそばには函館西高校がある。この絶景を眺めながら青春を送れるなんて、なんと贅沢なことだろうか。うらやましすぎて悶絶すること請け合いなのである。

ちなみに、このあたりにはネコがたくさんいる。ネコ好きにもたまらないポイントなのである。

 

八幡坂をくだり、函館駅までは路面電車で戻る。

僕は路面電車がある街がとてもうらやましい。旅情を掻き立てられるなんてもんじゃない。実際住んでみるにしても、これほど使い勝手の良い交通機関は無いように思える。バスなんかよりよっぽど使いやすい。

函館駅までは10分ほどだ。

修学旅行で訪れてからまもなく建て替えられた駅舎は、とても近代的で美しい。

駅前もだいぶ整備されているが、ところどころ昔ながらのお土産物屋さんが立ち並んでいる。

その中の一軒、修学旅行の際に訪れたことのあるお土産物屋さんに入ると、なんと本日お店を締めるということだった。修学旅行で来たことがあると伝えると、お店のおばさんはとても喜んでくれた。おばさんは、売れ残った「函館」とかかれた提灯ををおまけで付けてくれた。閉店の日に訪れるなんて、偶然もいいところである。

なお、このときもらった「函館」とかかれた提灯を仙台に住む友人にお土産として渡したところ、彼はしばらくして体調を崩した。

彼はこの提灯を「呪いの提灯」「体調が悪くなった原因」などと散々ののしってくれた。倒産したお土産物屋さんで最後まで売れ残った提灯なのだから、呪いもたくさん詰まっているはずなので、きわめて妥当な指摘と言える。

 

翌日、函館から列車にのり50分ほど。トラピスト修道院へ行くことにした。

函館市内にはトラピスチヌ修道院という観光客が必ず立ち寄る場所があるが、こちらは女子修道院。名前は似ているが、トラピスト修道院は男子修道院である。

トラピスト修道院は、函館からかなり離れているからなのか、トラピスチヌ修道院よりも訪れる観光客も少なくわりとひっそりとしている。

渡島当別という駅で降り、駅前の大きな道路を5分ほど西へ歩く。分岐した道を右へ入って、少し坂を上がると、まるでヨーロッパのような並木道が突然現れる。

そして、一直線の並木道の奥には、レンガ造りの赤茶けた修道院の建物が見えてくる。

子供のころ、親が持っていた北海道のガイドブックに、この風景が載っていた。それ以来、いつか行ってやろうと心に決めていた。その風景に、10年後ついに出会うことができた。

修道院の中に入るためには、事前に予約をしなければならないのだが、この風景を眺めるだけでも来る価値はある。

修道院の建物を回り込むように遊歩道がある。裏手の小高い丘へ登ると、海をバックに、修道院の全景が眺められる。この風景もまた美しい。

並木道のそばには中学校がある。こんな環境で青春時代を過ごせるなんて、なんとうらやましいことか。初々しい中学生カップルが歩いているのを見たときなんて、うらやましくて死にそうになったものである。

 

死にそうになったついでに、函館市街へ戻り、カップル満載の函館山で一人夜景を見ることにした。

先に訪れた八幡坂から少し歩いたところにロープウェー乗り場がある。カップル満載のロープウェーにのって5分ほどで山頂の展望台に到着だ。

展望台は予想通りきゃぴきゃぴしたカップルであふれかえっている。その合間をぬって展望台の前まで出ていくのは大変勇気のいる行動なのだが、その努力に見合う分だけ夜景は素晴らしい。香港やパリ、長崎や東京など様々な場所の夜景を見てきたが(主に独りぼっちで)、僕は函館の夜景が一番好きである。

 

独りぼっちの夜景を楽しんだ後は、途中のコンビニでやきそば弁当を買いつつ、ライトアップされた教会群や港の風景を眺めながらホテルまでとぼとぼと歩いていく。ライトアップされた街には意外なほど観光客が少ない。きゃぴきゃぴカップルは、夜景を眺めに函館山にいるのだろう。素晴らしい景色を独り占めだ。

明日は朝から青森行きのフェリーへ乗るため、函館港へ移動する。また時間とお金ができたら、この港町の風景を眺めにやってこよう。

 

独りぼっちで函館へ行くというと、寂しくてつまらないのではないかと思われる方もきっといるはずである。

しかし、函館で寂しいと思ったことは、実は一度もない。

大学生の旅以降も複数回訪れているが、やはり寂しいと感じたことはない。

それは、日本とは思えない、この港町の風景が僕の心をつかんで離さないからなのかもしれない。

 

 

続 北國紀行 その4 函館本線の話

札幌から函館へ行くには、特急列車が一番早い。それでも3時間はかかるが、常人はこの手段を選ぶことだろう。

深夜バスも走っている。函館まではおよそ5時間だ。これを選ぶのは、自分を痛めつけたいマゾっけのある人か、自分に厳しい試練を与えたい修行僧くらいである。僕はマゾでも修行僧でもないので、この手段を選ぶはずがない。

第3の手段としては、青春18きっぷを使って、鈍行列車のみで10時間近くかけて行く方法がある。これは、お金のない腐れ大学生が好んで使う手段なので、僕は喜んで第3の手を選ばせていただく。

 

勢い勇んで、札幌駅から列車に乗り込んだものの、深夜バスで深手を負った身ではやはり厳しい行程だった。

結局2時間ほど行ったニセコで無念のリタイアとなり、羊蹄山の麓にある救護施設(宿)に担ぎ込まれたのである。

 

翌朝、しっかりとしたベッドで英気を養った僕は、ニセコ駅から旅を再開した。

昨夜同宿だったカップルが同じ車両にいるのだが、僕らはお互いに深く干渉したりはしない。

カップルは二人だけの時間を僕に邪魔されたくないだろうし、僕も彼らの邪魔をする気は毛頭ない。惨めになるだけである。

というか、カップルでユースホステルに泊まるんじゃない。

18きっぷで旅をするんじゃない。

ニセコプリンスホテルに泊まって、特急列車で旅をする立派な人間になりなさい。

鈍行列車は、さびしい腐れ大学生に任せておけばいいのだ。

僕は心の中でカップルに説教をかまし大満足だ

台風の影響で昨日の午後から雨風が強かったのだが、本日は台風一過の快晴。

羊蹄山を眺めながら列車に揺られていく。

 

3時間もすると長万部についた。

ここでJR北海道あるあるである「乗り換えまでの長時間待ち」に遭遇だ。でも、今回は2時間だから大したことはないよ。

長万部駅の外へ出ると、本当に何もない、閑散とした街が広がっている。

噂のカップルもあまりの何もなさに、呆然としている。何を言うか。君たちには二人の時間があるではないか。二人ならどんな困難でも乗り越えられるではないか。こっちは独りぼっちなんやで。

そういえば、東京理科大学の学生は、1年生の間はここで強制的に暮らさなくてはならないと受験生の時に耳にしたことがある。地獄である。

札幌にしても函館にしても、どっちに行くにしろ列車で4時間近くかかるなんて。理科大の学生は修験道者かなにか?齢19にして悟りでも開こうとしているのかしら?

 

長万部を出ると、列車は海沿いを走り始める。

これは津軽海峡かしら?

よくわからないが、とにかくきれいな景色である。

函館まではまだ3時間ほどかかる。

綺麗な景色を眺めながら、列車に揺られことにしよう。