続 北國紀行 その3 深夜バスの話
宗谷本線で稚内まで来たものの、ここは日本の突き当りなので、どうにかして戻らなくてはならない。ここから先はロシア。これ以上先へは進めないのである。
もう一度、宗谷本線にのって戻ることも考えたが、お尻が痛い。
さて、どうしよう。
ぼんやりと考えながら駅前を歩いていると、暗闇の中煌々と輝く深夜バスの看板を発見した。
札幌まで6時間かかる。しかし、格安。
当然、青春18きっぷの2,300円にはかなわないのだが、深夜バスの強みは、宿泊代を浮かすことができる点である。
稚内を23時発で札幌には朝の5時着ということは、一晩をバスの中で過ごすことになり、つまりは宿を探さなくてもよいのである。
宿泊代が浮くことを考えたら、18きっぷにも圧勝といえる。
「これはいい乗り物をみつけたぞ」と、にやにやしながら僕は看板を掲げる旅行会社へと入っていった。
翌日、宿で一緒になった青年とレンタカーを借りて宗谷岬を訪れたり、ノシャップ岬などを散歩したりしながら、稚内の一日を満喫した。
稚内はそこら中にロシア語があふれていた。国境の街なのである。
夕方には、路線バスを乗り継いで日本最北の公共浴場で時間をつぶした。なんといっても、深夜バスの出発は23時なのである。
日本海に沈む夕日がとてもきれいで、いつまでも裸で眺めていたかったのだが、そうこうしているうちに、公共浴場から稚内駅へのバスが早々に最終を迎えてしまったため、急いで市街地に戻り、閑散とした稚内駅前のセイコーマートでバスを待つことに。
そして23時。いよいよ乗車時刻である。
車内は4列シートで、前後も左右もそれほど広くはなかった。
そして、僕が着席したと同時に、前に座るおじさんが背もたれをマックスで倒してくるのである。これには困った。明らかに僕は膝が当たっている。
僕は、それ以上背もたれが倒れないよう、必死の抵抗を試みた。
絶対に背もたれを倒したいおじさんと、絶対に倒されたくない腐れ大学生との熱い戦いである。
結局、勝負は早々に膠着状態を迎え、なんとも微妙な位置で背もたれは固定された。僕の膝はまだ当たっているが、おじさんも倒し切れていない。ここら辺が落としどころであろうか。
朝鮮戦争における板門店での会談を思い出しながら、広い心で、僕はおじさんと休戦協定を結んだのである。
さて、深夜バスというものに初めて乗ったのだが、とにかく暑かった。
乗客の熱気からか、湿気がものすごく強い。
おまけに、僕は日本最北の公共浴場でぬくぬくと温まってしまったため、体がとてもほてっている。深夜バスに乗るには最悪のコンディションと言える。眠れやしない。
バスは真っ暗な中を疾走していく。当然ながら外の景色など楽しめるわけがない。
おまけに、車内は消灯しているため、本を読むことすらかなわない。というより、本を読んでいると間違いなくバス酔いするので、そもそも読めない。
それに加えて、休戦協定を結んだはずのおじさんが、たびたび領土侵犯してくるため、油断も隙も無い。
こうなったら、一刻も早く札幌についてもらいたいものだが、稚内から旭川までは、高速道路が走っていない。つまり、法定速度である50キロ程度で、常にとろとろと走っている。ずいぶん時間もたったろうと思い外を見てみると、まだ稚内の少し南の街にいる。この絶望感はバスに乗ったものにしかわからない。
しっかり宿に泊まって、宗谷本線でゆっくり帰ってくればよかったのではないか。僕は暗闇の中で自問自答を繰り返していた。。
そして、あまりのつらさに涙を流しているうちに、いつのまにやら意識は遠のいていったのである。
気づくと、窓の外は明るくなっていた。
いつの間にか、休戦協定を結んでいたおじさんの姿は消えていた。
協定違反で追い出されたのだろう。いい気味である。
バスはどうやら札幌市内に入ったようだ。
夢にまで見た札幌の街。札幌テレビ塔の姿が遠くに見える。僕は耐え抜いたのだ。
札幌駅前でバスを降りると、さわやかな空気が僕を襲った。この時の爽快感と言ったら、筆舌に尽くしがたい。なので、詳しくは書けないのである。
こんなに爽快な気分になれるなら、また深夜バスに乗りたいね!
と、なるはずがない。
二度と深夜バスには乗るまい、と少し肌寒い札幌の街は歩きながら、心に誓った。
続 北國紀行 その2 宗谷本線の話
宗谷本線は、旭川から稚内まで伸びる、全長300㎞もある長い路線である。
美瑛で3日間を過ごした僕は、午前10時ごろ、饒舌系台湾人と一緒に、富良野線で旭川駅へと出た。
今朝初めて知ったのだが、彼はこれから北海道大学へ留学するための大事な試験があるとのことだった。
昨日まで、僕は彼と一緒に南富良野の方へ遊びに行っていたのだが、果たして試験は大丈夫なのだろうか。というよりも、連日朝の5時くらいまで僕たちに思い出の写真を見せ続けていたのだが…。彼は鉄人なのである。
とにもかくにも、彼の合格を祈りつつ、僕は名寄行きの列車に乗り込んだのである。
名寄までは2時間ほどらしい。
列車で2時間と言えば、そこはもう十分に目的地といえるのだが、本日の目的地は名寄ではない。稚内だ。名寄はあくまで乗り換え場所に過ぎない。
時刻表によると、名寄から先、稚内まではさらに5時間程度かかるらしい。合計で7時間。途方もない時間を、僕はこれから列車の中で過ごさなくてはならない。
旭川駅を出発した列車は、市街地を抜けると、すぐに畑だらけの自然豊かな場所を走り抜けていった。
本州ではなかなか見られない風景に興奮しそうなものだが、3日間美瑛で過ごしたことで、すっかり雄大な景色への免疫がついてしまった僕は、それほどの感動を得ることもなく、なんとなく窓の外の景色を眺めながら、ごとんごとんと列車に揺られ続けた。そして、いつの間にか眠ってしまった。
そうして2時間後に名寄駅へついた。
僕はすっかりお尻が痛くなっていたのだが、先にも書いたとおり、名寄はただの乗り換え場所なので、お尻をさすりながら必死で連絡橋を駆け上がり、向かい側のホームに停車している稚内行きの列車へ急いだ。
乗り換え時間はわずかに3分しかない。
だいたい2~3時間に一本しか列車は来ないので、一度乗り過ごすと大変なことになる。宗谷本線というのは、なんとも怖ろしい路線なのである。
無事に乗り込んだ一両編成の列車は、森の中を疾走していく。
時折、駅舎もない、ホームだけの駅で停車するのだが、駅の周囲は森に囲まれており、お店はおろか、人家さえみあたらない。
この駅を利用するのは、鹿か、それとも熊なのか、はたまたキツネか。不思議でたまらない。
どれくらい森の中を疾走しただろう。
時計を見ると、名寄をでて3時間ほどが経っていた。
アナウンスが告げた幌延駅を時刻表の路線図で確認すると、なんと稚内まであと数駅というところまで来ている。
しかし、時刻表によれば、あと2時間はかかるはずなのだが…。これはいかに。
まさか、1時間以上時間をまいたというのだろうか。そんなことをしてもよいのか、JR北海道。
お尻が限界の僕は、1分でも早く稚内へ着いてほしいので、時間をまくことには大賛成である。
しかし、車掌さんはつづけてこうアナウンスした。
「次の幌延では、え~、1時間ほど停車いたしますぅ」
1時間!
なぜ事故でもないのに1時間も停車しなくてはならないのか。僕は本当に不思議でたまらない。
幌延駅へ着いたはいいが、1時間も列車の中で待つことは、おしりの状態を鑑みると不可能なので、途中下車して駅の外へ出てみることにした。
僕の持っている「青春18きっぷ」は、いつでもどこでも乗り降り自由な、とても便利な切符である。しかし、特急列車や新幹線には乗ることができない、制約の多い切符でもある。
だからこそ、僕はわざわざ7時間もかけて、鈍行列車で稚内へ向かっている。特急列車には乗りたくても乗れないのである。
JR北海道には、もう少し使い勝手を良くしてもらいたいものだが、1日2,300円で好きなだけ乗り放題させていただいている貧乏学生の身からすると、抗議することなどできやしないのである。
「トナカイの街 幌延」
という看板が、駅前に出ていた。
トナカイというのは、アラスカとか、大変寒い場所にだけいるものだと思っていた。まさか日本にいるなんて思いもよらなかったので、これは新鮮な発見。
これも、幌延駅で1時間も停車するおかげであり、乗り降り自由な青春18きっぷのおかげなのである。ありがとうJR北海道。
せっかくなので、トナカイを見に行こうと駅前を歩いてみたが、残念ながら街のどこにもトナカイはいなかったので、駅前のスーパーでから揚げを買い、おとなしく列車へ戻ることにした。時間が経つのは早いもので、発車まであと10分をきっていた。
再び走り出した列車は、40分ほど深い森の中を駆け抜けると、景色の大変素晴らしい平原へと出た。
牧草を丸めたころころと可愛らしいものが転がる広大な畑の向こうには、富士山のような大きな山が見えた。地図で確認すると、どうやら利尻島というらしい。ただの山ではなく、島なのである。
徐々に速度を落としていく列車は、ついに海沿いに出た。
すると、海の向こうには、利尻島の姿をしっかりとみることができた。なんとも素晴らしい景色である。
やけに速度を落とすなあ、と不思議に思っていたところ、これは利尻島の絶景を堪能してほしいという、JR北海道のサービスのようだった。JR北海道は素晴らしい会社である。JR北海道万歳!
ご厚意に甘えた僕は、夕暮れに染まる利尻島の絶景を何度も何度も写真に収めた。
実に数時間ぶりに市街地を走る列車は、ついに稚内駅へ到着した。
列車を下りると、ひんやりとした空気が僕の体を襲った。
寒い…。
9月上旬だというのに、すっかり晩秋の空気である。
近所に買い物へ行くようなサンダルで旅に出てしまった僕は、心の底から後悔した。日本最北端の地の空気というのは、僕の住む大阪とはここまで違うのか。
「日本はなんて広いのだろうなあ。」
「日本最北端の駅」の記念碑が立つホームで月並みな感想をつぶやきながら、僕は宗谷本線の旅を終えたのである。
続 北國紀行 その1 美瑛での話
美瑛と言うのは、とても美しい街である。
どれくらい美しいかと言うと、「日本の美しいむら百選」に選ばれるほどである。
街中に畑が広がり、北海道らしい、とても雄大な景色を満喫することができる。
美馬牛のユースホステルに宿泊した翌日、僕もレンタサイクルで雄大な風景の中を散策した。
美瑛の観光名所と言えば、「ケンとメリーの木」とか「セブンスターの木」とか、木ばかりである。
どの木もとても絵になる風景で、現代であれば間違いなくインスタ映えスポットになり、女の子たちがきゃぴきゃぴと戯れる、とても楽し気なスポットになっていたことであろう。
しかし、インスタなんてものがなかった当時は、きゃぴきゃぴした女の子は全く見当たらず、目につくのはおじいちゃんおばあちゃんや、僕のような腐れ大学生ばかりであった。なんとも楽しくないスポットである。ただ、景色は素晴らしかった。
たくさんある木の中で、僕が一番気に入ったのは「クリスマスツリーの木」である。
「るるぶ」にも載っていない穴場スポットで、ユースホステルから歩いて20分ほどのところにあった。
パンクさせてしまったレンタサイクルをお店に戻すついでに、畑の中をてくてく歩いていく。
さすが穴場スポットだけあり、看板もろくにない。
しかもあたりは畑だらけの同じような風景なので予想どおり迷ってしまったが、日が暮れる前になんとか到着できた。
「クリスマスツリーの木」という名に恥じないくらい、もう本当にクリスマスツリーそのもので、僕はうれしくなって、セルフタイマーを駆使し、一人で何枚も何枚も写真を撮ったのである。
さて、ユースホステルに戻ると、同部屋に台湾人青年がいた。
日本語はわりとぺらぺらで、僕らはすぐに仲良くなった。
彼はとてもおしゃべりが好きで、台湾のことをいろいろと教えてくれた。
「台湾の写真、いっぱいありますよ。いっしょにみましょうよ」
「いいですねえ。ぜひぜひ」
と、彼と二人談話室に入り、写真を見せてもらうこと5時間。
深夜3時になっても彼の話は終わらなかった。
そればかりか、さらに勢いを増す彼のマシンガントーク。
親切を無下にできない心優しき僕は、結局最後まで彼に付き合い、朝の5時になってようやくベッドに入ることができたのである。
「わたし、鉄道員すきですよ」
翌朝、目覚めると彼が開口一番そういった。
美瑛から列車で1時間ほどの場所に幾寅という駅があるのだが、そこは浅田次郎原作「鉄道員」という映画の舞台となった場所である。
昨晩、彼との話の中で、「明日、鉄道員の舞台となった駅へいくよ」と話したことを思い出した。そして後悔した。
「わたしもいっしょにいきますよ」
おしゃべり好きの彼との魅惑の小旅行の幕開けである。
幾寅駅の周辺には、撮影の際に使用したロケセットがそのまま残されており、セットの中には高倉健のサインや、問題を起こす前のとてもかわいかったころの広末涼子の等身大パネルが置いてあった。思ったよりも楽しい場所だ。
饒舌系台湾人の彼は、映画のことを本当に知っているようで、同行した台湾人女子二人と一緒に、僕のわからない言葉でとても盛り上がっていた。
なぜ女子がいるのか?
当初は、饒舌系男子と僕の2人で出かける予定だったのだが、饒舌系男子が得意のマシンガントークで同宿の台湾人女子を誘い、ついに落としたのである。
おかげで4人での小旅行となった。
饒舌系台湾人はたいして格好良くはないのだが、実はなかなかやる男なのである。
さて、見学をおえると、饒舌系男子が突然、
「となりのえきまであるきましょうよ」
と、まったく魅力のない提案をしてきた。
電車が来るまで1時間近くあり、だまって待っているくらいなら少し散策しよう、という意図なのだろうか。まったく楽しそうではない。
僕はあまり乗り気ではないのだが、女子たちと歩けるならばそれはよいかも♪と思い、気分を入れ替えさっそうと歩きだした。
しかし、台湾系女子が全くついてきていないことに、歩き始めて10分ほどたったころ気が付いた。
「あれ?台湾系女子は?」
「ふたりはれっしゃにのるといっていましたよ」
先に言えよ…。
結局、隣の駅まで2時間近く饒舌系男子と一緒に散歩を楽しみ、よくわからない聞いたこともない駅で記念撮影し、宿へ戻ってきたのである。もしかしたら、彼は僕と二人で歩きたかったのかもしれない。これは恋なのかしら。
「たいわんのおもいでのしゃしんみましょうよ」
夕食後、饒舌系台湾人がまた言い出した。
「それは素敵ですね!ぜひ見せてください」
今宵の犠牲者は、看護師さんを目指しているちょっとかわいい女の子だ。
今日こそは彼の誘いを振り切って早くねるんだ、と決意していた僕だったが、看護系女子とお近づきになれるのなら、といういやらしい動機で、2日連続で饒舌系台湾人の宴へ参加したのである。
そして、案の定、深夜3時過ぎになっても終わる気配のないこの宴に参加したことを心から後悔したのである。看護系女子との甘い夜に期待した僕は実におろかだったといえる。
ちなみに、看護系女子も、まさか宴がこんなにも長く続くとは思っていなかったようで、僕と同じように、最後には死んだ魚のような目で宴を楽しんでいたのである。
北國紀行 その5 函館にて
充実の夜を過ごし、これで心残りもなく遠野を発つことができる。
「もう寝過ごしちゃだめだよ!」
とみんなにいじられながら宿を出発だ。
年上系女子2人と歩きながらバス停へ向かうと、背後から大きな声が聞こえた。
「いってらっしゃーい!またこいよー!」
オーナーさん夫妻とアルバイトの女の子が叫んでいた。旅人への呼びかけは、この宿の名物なのである。
「行ってきまーす!」
叫び返す年上系女子2人。
一方で、大きな声を出せず、ただ手を振るのみのコミュ障男子。
人の性格というのは、そうそう変わるものではないのである。
また何年後かに戻ってこよう。
そして、今度はコミュ障を克服し、ここで「行ってきまーす!」と大声で叫ぼう。
僕は心から誓ったのである。
勇気を出して、もう一泊して本当に良かった。
おかげで前向きな気持ちになれた気がする。
遠野駅で、未使用の青春18きっぷを払い戻す。
鈍行列車では、とても本日中に函館までたどりつけないので、払い戻したお金で新幹線と特急列車の切符を買う。もうなりふり構わず特急で移動するしかない。
明日は旅の最終日。
明日の昼12時の函館発の飛行機に乗らなければならないというのに、予定外のことで、まだ遠野にいる。
トラブルのない旅など旅ではないのだ!
しかし今日中に函館につくために、全く手つかずだった青春18きっぷを売り払い特急列車の代金にするというとっさの判断をよくできたものだ。旅というものは、腐れ大学生をも成長させるのかもしれない。
盛岡から乗った新幹線は八戸までしか通っていない。
ここで特急列車に乗り換え、どんどん北上していく。
青函トンネルを抜け、北海道へ入ると、もう夕暮れだった。
右手には、夕日に照らされた津軽海峡が見える。
大変美しく、心に残る景色だった。
ガラガラの車内では、カメラをもった若い男性が何度も何度もシャッターを切っていた。
函館についたのは18時過ぎだった。
そういえば宿の予約をしていなかったのだが、勇気を出して駅前のビジネスホテルに特攻し、無事に部屋を確保することができた。
思い返せば、旅に出る前は宿に予約の電話をするのが恥ずかしくて、平泉も遠野も、往復はがきなんぞで予約の連絡をしたものである。
旅は、腐れ大学生をも成長させるのである。
ホテルに荷物を置き、薄暗い函館の街を抜け、僕は真っ先に函館山へ登った。
高校の修学旅行で来て以来、3年ぶりの夜景はとても綺麗だった。
夜景が終わったら、今度は坂の街を散策である。
修学旅行の際に見た昼間の風景は大変美しく心に残るものだったが、夜の雰囲気も捨てたもんじゃない。大正時代を思わせるガス灯が灯す坂の街の風景は、心に残るものだった。
今回の旅は、なんだかとても印象に残る旅だったなあ。
そんなことを思いながら、今回の旅を終えたのである。
北國紀行 その4 遠野哀歌
遠野には昼前についた。
津山女子を待伏せしようという不埒な理由で早起きしたこともあって、思いのほか早く到着した。
駅を出ると、交番やお店など、そこら中にカッパがいた。
遠野は民話の故郷で、妖怪がそこら中にいるという噂の街なのである。
駅前の小さな食堂で東大生とお昼ご飯を食べ、自転車を借りて遠野の街を散策する。どうやら台風が来ているようで生暖かい風が吹いている。
途中の案内板に「寒戸の婆」という伝承が書かれていた。
嵐の日に神隠しにあった女性が、数年後の風の強い日にふらっと戻ってきたそうだ。きっと今日のような風の強い日だったのだろう。
座敷童がいそうな家を再現した伝承館や、カッパがいるというカッパ淵、民話を動画で再現した博物館など、遠野は思いのほか楽しい場所である。
充実した1日を過ごし、本日の宿である「遠野ユースホステル」へと向かった。
遠野ユースは、同じユースホステルでも平泉の宿とは違い、とても家庭的な雰囲気だった。ユースホステルというものもいろいろとあるのだなあ。
夕食を食べてからは、2階の談話室でオーナーさんの観光案内と雑談タイムの始まりである。
平泉の宿とは違い宿泊客も多く、賑やかい雰囲気の中、夜は更けていった。
翌日、秋田へ向かおうと早起きすると、「台風で列車とまっているよ」とオーナーさんが言う。
外を見ると、確かに風が強かった。
「こんな風の日は「寒戸の婆」が帰ってきそうだなあ」
オーナーさんは空を見上げてつぶやいた。
しかし、雨は全く降っておらず、それどころか、少し晴れ間さえ見えるではないか。
お客を逃がさないためのオーナーさんの策略では、と疑ってはみたものの、確かに列車は止まっているようだ。これは連泊決定である。
旅にトラブルはつきもの。
トラブルのない旅など旅ではないのだ!
宿で自転車を借り、強風の中を、今日も遠野を散策だ。
北の方で金精様というち●こをかたどったご神体をまつる怪しき神社を見学し卑猥な気分になると、今度は東へ向かいデンデラ野というかつての姨捨山を訪れちょっと怖い気分に。本日も十分に遠野の里を満喫したのである。
再び宿へ戻り、夜には相変わらずの雑談タイムが始まる。
しかし、コミュ障であり人見知りである僕は、ここにきて大勢の人の前では、自分から話ができないということに今更ながらに気が付いた。
東大生はぺらぺらしゃべり続けているのだが、同い年の僕はと言えば黙ってばかりいる。
オーナーさんの奥さまも「思ったよりしゃべらないよね」と気にかけてくれる始末。
なんというか、話すタイミングがつかめないのである。
わかってはいたが、僕はコミュ障だった。
臆することなくぺらぺらしゃべる東大生をうらやみながら、なんとも悲しい気持ちになり、僕は寂しくベッドに入った。
翌朝、昨夜のことを思い出し少し落ち込んだ気分の中、東大生とともに出発するため外へ出る。
本当にこのまま、コミュ障のまま遠野を去ってもよいのかしら。
うじうじした気分で玄関付近をうろうろしていると、
「帰ってきてもいいからね!」
昨夜気にかけてくれたオーナーさんの奥さまが、やさしく声を掛けてくれる。
奥さまはきっと、僕の心の中を見透かしているのだ。
「そんなこというと、本当に戻ってきちゃいますよ」
「もちろんいいよぉ!」
そんな会話をかわして、僕はバス停へと向かった。
遠野駅までのバスの中で、僕は本気で迷っていた。
この気持ちのまま、本当に遠野を離れてもよいものだろうか。
今回の旅は函館が目的地である。しかし台風の影響で、すでに遠野に1日余分に滞在しているため、今日遠野を離れないと、予定通りに函館へ到着でいなくなってしまう。緊急事態である。
それにもかかわらず、奥さまの言葉が頭から離れない。
「帰ってきてもいいからね」
何度も何度も忘れようとするのだが、やはり迷いは消えない。
遠野駅へ着き、東大生が改札をくぐっていくのを黙って見守る。
それでも迷いが消えない。ここで遠野を後にすると一生後悔する気がする…。
そう思った僕は、ここまで数日間ともに旅してきた東大生を非情にも巻いた。一度乗り込んだ列車を、発車直前に飛び降りたので得ある。
そしてそのまま駅近くの河原へと向かい、東大生の乗る列車が行くのをただぼんやりと眺めたのである。さらばだ、東大野郎。
思い切って列車を飛び降りたものの、この後どうしたらよいのだろう。
河原で一人ぽつねんと座り、今後の展開を思案する。
というよりも、本心はもう一泊したい気持ちでいっぱいなのだが、どこか踏み切れない。
この状況で「もう一泊させてください!」て、正直恥ずかしくないですか?電話なんてできなくないですか?
どうしようどうしよう…。
迷いながら、河原で何本もの列車を見送る。
気づけば、時計の針は10時を回っており、2時間近くも河原でうじうじしていたことになる。優柔不断な腐れ大学生、ここに極まれり!
というよりも、いまからでは、今日中に函館へ着くのはどう考えても無理なので、意を決して、宿へ連絡することにした。
「あ、あの、昨日とまった腐れ大学生なんですけど…」
「あ、帰ってくる?」
「いいですか…」
「もちろん!」
電話に出たのは奥さまだった。
僕は自分の恥をなるべく見せないように、「河原で寝ていて列車に乗り過ごした」という偽りの記憶を作り上げ、万全の態勢で電話に臨んだのだが、奥さまはすべてを見抜いたように、けらけらと電話の向こうで笑っていた。
まさかの3日目の遠野を散策し、8時間ぶりに宿へと出戻る。
宿のオーナーさんも奥さまも、アルバイトの女の子も、本日同宿の年上系女子2人もにやにやと笑っていた。は、はずかしい…。
この日は宿泊客も少なかったためか、夜の雑談タイムもまったりとした雰囲気だった。おかげで、コミュ障な腐れ大学生でも会話に入ることができ、楽しい時間を過ごすことができた。
雑談タイムが終わり、眠る前に少し外の空気をすいたくなった。
外へ出ると、頭上には一面の星空。
こんな美しい星空を見ることができたのも、勇気をだしたおかげなのである。
勇気を出して、もう一泊してよかったなあ、と満足した気分で空を見上げる。
吹く風はどこかひんやりとしていた。
秋はもうそこまで近づいてきているようだ。
北國紀行 その3 平泉恋歌
平泉の駅から歩くこと15分ほど。
平泉の中でもトップクラスの観光地として名高い毛越寺のなかに、本日の宿はある。その名を「毛越寺ユースホステル」という。
宿泊客は僕のほかに2人いた。一人はなんと東大生である。
東大生って本当にいるんだあ、と感嘆の声をあげつつ、彼とともに近所の公共浴場へ向かった。
平泉の街は畑が多く、かつて奥州藤原氏が栄華を誇った場所とは到底思えないほど、素朴な雰囲気だった。
宿へ帰ると、東大生ともう一人のおじさん、そして宿のオーナーと夜遅くまでトークをした。
ユースホステルとは旅人の交流を目的とした宿なので、各自の旅の思い出で花が咲いた。
おじさんはかなり旅慣れているらしく、礼文島のユースや、松江のユースについて教えてくれた。
両方とも、自分と今後大きく関わってくる場所なのだが、この時はまだ知る由もないのである。
旅人とのトークが思いのほか盛り上がり、すっかり夜更かしをした翌日は、朝から自転車を借りて、平泉の街を走り回ることにした。
旅人の義務である観光へ出かけるのである。
まずは何はともあれ中尊寺である。
奥州藤原氏が眠る壮大なお寺は小高い山の中に堂宇が立ち並んでおり、序盤から坂だらけで、寝不足の旅人には堪える。
それでも気合で急坂をあがり、金色堂を見学し、旅人の義務を果たす若人。
平泉には街中に奥州藤原氏や源義経関連の史跡が転がっており、旅人を退屈させない。
一つ一つの史跡はそれほど派手さが無いため、退屈する旅人もいるはずではあるが、歴史が大好きな僕にとってはなんとも楽しい場所であった。
衣川の戦いで戦死した源義経を祀る義経堂の小高い丘からは、壮大な北上川の姿も見ることができた。
ゆったりとした北上川を眺めながら、堤防をのんびりと散歩した。
平泉はどこへいっても田舎だった。
かつての栄華はどこへやら。
兵のどもが夢の跡なのである。
東大生と合流し、昨日に引き続き温泉で汗を流してから宿へ帰ると、今日は少し年上の女の子がお客として泊っていた。
岡山県は津山市出身の彼女は、とても明るい女性で、女性に免疫のない僕と東大生はあっという間に恋に落ちた。
しかし、その場では楽しくおしゃべりができたとしても、やはり免疫のない腐れ大学生である僕らは、連絡先を聞くという大胆な行動をついに起こすことができず。
彼女とは一晩の甘い夜(談話室でのおしゃべり)を過ごしただけで終わったのである。
翌朝、始発に乗るという年上系女子を見送ろう、あわよくば連絡先を聞き出そう、と早起きをしたものの、彼女はすでに旅立ったあと。
寂しく平泉駅まで歩いていく悲しき腐れ大学生たち。
今日の目的地は民話の故郷、遠野である。
北國紀行 その2 山形というところ
朝の通勤通学の時間帯と言うこともあり、列車には女子高生がたくさんのっていた。
女子高生を眺めることで、初めの2時間くらいはとても充実した鈍行列車ライフを過ごすことができたのだが、女子高生がいなくなってからは、車窓の日本海の風景に飽きたこともあり、地獄のような時間を過ごすことになった。
そして、気づくと山形県に入っていた。
羽越本線から磐越西線への乗り換えに2時間以上かかる余目駅では、まわりに何もなくじっとホームのベンチで時を過ごし、また列車に揺られる。
僕は修行僧なのだろうか。
そして東根市の神町駅で下車し、今宵の宿である東根ユースホステルへ着いたのは午後の4時。
新潟駅から10時間。実に長い旅路であった。
青春の旅路と言うのはこうも長く苦しいものなのだろうか。
ユースホステルというのは、旅人との交流を目的とした宿である。
にもかかわらず、本日の宿泊客は僕一人で、仕方なく宿のご主人と温泉に行くなどして過ごした。
そもそも東根市と言う街にわざわざ泊まりに来るやつなどいるわけがないので、旅人との交流など夢のまた夢である。
どこだよ、東根市って。
「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」
山寺駅で列車を下り、門前街を眺めながら山寺(立石寺)へと歩いていく。
お土産物屋や蕎麦屋が立ち並び、実に観光地然としている。
何だかんだ、大阪からここまで列車に乗りっぱなしで、観光地は初めてであった。
観光とは旅行者の義務である。
義務を果たすこともなくここ数日を過ごしていた僕は、旅人失格といえる。
山寺は、その名のとおり山にへばりついたお寺で、一番高い場所にある建物までは階段を40~50分は登らなければならない。まさしく苦行である。
しかし、てっぺんからの景色は大変素晴らしく、苦しい登山をしたかいがあったなあといえる。
9月ではあるが、なんとなく、蝉の声も聞こえてくる気がする。
「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」
芭蕉に思いを寄せながら、蝉の声に耳を傾ける。芭蕉リスペクトである。
山寺を十分観光し、門前町でそばをすすり、お土産物屋さんを覗き、実に旅人らしいふるまいを過ごし満足したところで、再び列車の旅の始まりである。
あらためて仙山線へ乗り込み、終点の仙台駅で下車する。
仙台駅前はビルが立ち並び大変な都会である。
ここまで通過してきた新潟や山形などと比べ物にならないレベルの街である。
東根なんぞ仙台の足元にも及ばないと言っていいだろう。
なぜ東根なんぞに行ったのだろうか。
しかし、ここまで田舎街ばかりを通過してきた僕に大都会仙台はまぶしすぎる。
「みどりの窓口」で青春18きっぷを追加で購入し、わずか20分ほどで仙台を後にした。
余談だが、青春18きっぷは1日2,300円の切符が5日分セットでしか販売されていない。JRはケチなのである。
すぐさま乗り換え、本日の目的地である平泉で下車。
駅の外へでると、すっかり夕暮れ。
仙台から東北本線を乗り継ぎやってきた平泉の街は、当たり前ではあるが東北の盟主である仙台と比べると、格段に田舎だった。