北國紀行 その1 青春18きっぷ

一日2,300円で列車に乗り放題というとんでもない切符をJRは販売している。

青春18きっぷ」という名の破格の切符は、青春を感じたい人間ならだれでも購入することが可能である。別に18歳しか購入できないきっぷと言うわけではない。

大学2回生の9月、青春真っ盛りの僕は、一人旅というロマンあふれる行動を行うために、切符片手に列車へ乗り込んだ。最終目的地は、北海道の函館である。

 

大学のある大阪から、午前10時の新快速に乗りまずは米原へ。

米原からは東海道線普通列車に乗り換え関ケ原。さらに快速に乗り換え名古屋から豊橋へ。こういった具合に鈍行列車を乗り継いでいくのが、青春18きっぷの旅である。

この切符は鈍行列車にしか乗ることができない。新幹線や特急列車なんてもってのほかである。なんともお尻に良くないきっぷと言える。2,300円で乗り放題させてもらっている身なので文句は言えないのだが、JRもそこはケチらないでほしい。

いくら19歳の青春真っ盛りの若者と言えど、鈍行列車に1日中乗っていれば、お尻へのダメージは相当なものである。

浜松を過ぎ、実家のある伊豆長岡に着くころにはすでに夕方。実に7時間以上も列車に揺られていたわけである。

青春とは、辛く苦しいものなのである。

 

実家でお尻をいたわった翌日、旅を再開した僕は、東海道線と山手線を乗り継ぎ新宿へ。新宿23時発の「ムーンライトえちご」へと乗り込んだ。

JRはとてもやさしい会社で、青春18きっぷを使う人間はホテルにも泊まることのできない貧しい人間なのだろうと、深夜快速列車を用意してくれている。

列車の名前のとおり、行先は新潟県である。

 

新宿を出発した列車は、朝の5時という信じられない時間に新潟に着く。腐れ大学生にとっては、朝の5時は起床時間ではなく就寝時間である。

夜行列車と言えば、寝台列車をイメージしがちだが、ムーンライトえちごにそんなものはない。狭い座席一択である。

この日は、学校の夏季休業中と重なることもあり、満席だった。

つまり前にも後ろにも、当然横にも人はいる。

6時間以上、ぎゅうぎゅう詰めの列車に乗って、僕は新潟へ向かう。青春と言うのはつらく苦しいのである。

 

本来であれば就寝時間である朝の5時過ぎ、僕は新潟についた。

寝ているのか起きているのかわからない状態の6時間はまさに地獄であり、列車から降りた僕は、シンナー中毒者のようにふらふらと新潟駅構内を彷徨っていた。

周りを見ると、ムーンライトえちごから降りた乗客は、みんなふらふらしていた。

 

新潟についたからと言って、旅はここで終わりではないのである。

むしろここからがスタートと言っていい。

 

初めにも書いたが、今回の旅の最終目的地は、北海道の函館である。

修学旅行の時に見た美しい夜景をどうしても見たかった。

東北各地を巡りながら、函館を目指し北上していくのである。

 

通勤客でごった返す羽越本線へ乗り込み、まずは日本海を北上し山形へと向かっていく。

ゆとり合宿@韓国

 


学生時代に僕が加入していたサークルでは、毎年「海外合宿」を行っていた。

「海外合宿」と言えば聞こえはいいが、ようするに、ただの旅行である。

僕が加入してからは、グアムと香港という、合宿を行う場所とは到底思えないリゾート地で合宿を開催した。しかも、旅行会社のパックツアーを利用しており、労せずに旅行できてしまうよ。

これでよいのか?いや、これではいけない。

と、3回生になった僕は合宿の在り方に異を唱え、変革を試みた。そして、その過程で部員が次々と辞めていった。改革に犠牲はつきもの。仕方がないことなのである。しかしながら、まさか僕以外の部員が全員辞めてしまうとは思わなかった。学生のサークルとしては前代未聞の事態。これでは合宿ではなく、ただの一人旅である。

それでも、負けじと勧誘活動を継続したところ、翌年、5人もの新入部員を得るに至った。そして、新制メンバーで行ったのが、伝説の台湾合宿なのである。

このあたりの話については、「台湾紀行」に詳しく書かれているが、「荒々しい旅」を終えた僕らは一回り頼もしくなり、わが部も新時代を迎えた、かに思われた。

しかし、あの荒らしい「台湾合宿」の翌年、組織として大事な2年目にも関わらず、後輩たちは「韓国パックツアー合宿」を実行するに至った。

旅行のすべてを自分たちで行う、あの男らしい合宿は、わずか1年で終焉を迎えることとなった。悲しきことである。これが「ゆとり世代」と言うものなのか。先輩はかなしいよ。

と、一人うじうじしていた僕を、後輩たちは合宿に誘ってくれた。

学部を卒業し、大学院に進学したくせに授業には行かず、そのくせ部室には毎日のように現れる、じつに面倒くさい先輩を、後輩たちは誘ってくれたのである。なんと良き後輩たちであろうか。ゆとり世代万歳。

というわけで、僕はゆとり世代が計画した「韓国パックツアー合宿」に参加することとなったのである。2007年の11月のことだった。

 

 

仁川空港に到着した我々は、案内人の運転するマイクロバスで、労せずしてソウル市内のホテルへチェックインだ。

昨年の台湾合宿を文章化した時には、空港から台北市内へ向かうくだりだけで2ページぐらい使ったというのに、今回はわずか2行だ。パックツアー万歳。

荷物を置いたら、さっそく街へ繰り出そう。

韓国と言えば焼肉である。先日、一人で釜山へ行った際には、焼肉には縁がなかった。なんで韓国まで来て一人焼肉しなくてはならないのか。おいしい焼き肉を食せるのも、グループ旅行だからこそである。合宿万歳。

焼肉のあとは街をぶらぶらし、アイスを食べたりお土産をみたりと、実に平和に時は流れていく。あの、荒々しい台湾合宿とは真逆の展開である。台湾合宿の1日目の夜は、廃墟のようなゲストハウスで絶望に暮れていたっけ。

ソウルは、やはり首都だけあって、一人旅で訪れた釜山や慶州などの地方都市とはけた違いに都会だった。両腕を組みながら歩くおじさんたちなど、日本では想像もつかない人たちも沢山いた。異文化体験こそ海外旅行のだいご味ともいえる。

 

何事もなく1日目が終わり、そして何事もなく2日目が始まった。

本日は、世界遺産の宮殿みたいなものをまわる。しかもガイド付きである。なんと至れり尽くせりなことか。

秋風が吹く、少し肌寒いソウル市内をまったりと観光する我々。

ケンカもせず、一緒に写真なんぞを撮ってしまう。

なんと平和なことか。

2日目も、実に平和に、そしてあっという間に過ぎていくのである。平和万歳。

 

3日目は各自自由行動の日。

ある意味、合宿の神髄ともいえる自由行動の日なのである。

台湾合宿では、二手に分かれ、地方都市である花蓮にて集合という、荒々しい自由行動をした。

今年の様子はと言うと、あるものはショッピング、そしてあるものはホテルでゴロゴロ。これがゆとり世代なのである。

さて、僕はといえば、後輩のあやふみ氏とともにカジノへ繰り出し、「3,000円+30分1本勝負」と題した、最終的に手持ちのお金が多い方が勝利するという男らしい企画を立てたわけだが、わずか15分ほどで2人も残金がなくなり退散するという大変寒い結果となったのである。

金の切れ目が縁の切れ目というわけで、僕はあやふみ氏と袂を分かち、一人ソウル市内を散策することにした。

当初は、ペヨンジュン氏の聖地でもある春川へいこうとも考えたが、バスで片道2時間ほどかかるため断念し、地下鉄を乗り継いで、国立博物館へと行くことにした。

博物館には、京都の広隆寺にある弥勒菩薩のルーツとなった仏像があり、歴史好きとしては大変満足であった。

その後は特別行きたい場所もなかったので、地下鉄を適当な駅で降り、街を散策してみた。

駅を出ると、日本の集合団地のような場所へ。少し歩けば漢江の川辺に出られた。

漢江と言えば数々の韓国映画に出てくる有名な場所であるが、予想外に川幅が広く驚いてしまった。いかにも大陸にありそうな、とても大きな河川であった。

しばし川べりでほげほげし、集合時間に合わせて東大門市場へと向かうことにした。なんとも平和だ。実に平和な旅だ。

結局3日目も何一つとして事件は起きず、ビビンバを食べ、マクドご当地バーガーを食べ、そしてホテルへと戻り1日は終わってしまった。

 

最終日は空港へ向かうだけなので、なにも起きるはずもなく、本当に平和なうちに韓国合宿は終わってしまった。

昨年の台湾合宿とは雲泥の差ともいうべき、ゆとり満載の韓国合宿。

やはり今どきの若者にはこのような緩い雰囲気の旅が好まれるのであろうか。この後、わが部の部員数はうなぎのぼりに上昇し、現在では20人以上で構成される一大サークルに変貌したとの噂である。わずか数年前に、部員一人、廃部寸前となったのが嘘のようなV字回復。

しかし、やはり僕は、あの伝説的な台湾合宿のような、冒険心あふれる荒々しい合宿の

ほうに魅力を感じるのである。

 

日本をぶらぶら@桃岩荘

 


ユースホステルとは、主に若者向けの、相部屋を基本とした安い宿のことで、いまでいうゲストハウスのようなものである。もともと海外で始まったものだが、日本では1970年代くらいに全盛期を迎え、全国各地に数多くのユースホステルが存在した。当時の若者の多くはユースホステルを利用して日本各地、ありとあらゆる場所へ旅に出かけた。らしい。

 

このユースホステルの一番の特徴は、夜に行われるミーティングという集いである。ミーティングの内容は宿によって異なるが、基本踊ったり歌ったり、宿泊客同士で夜遅くまで語り合ったり…。若者でにぎわったユースホステルでは、夜な夜な出会いを求める若者たちが、このミーティングという集いに参加し、大いに歌い、大いに踊り、異常ともいえる熱い夜を過ごしたそうだ。

さて、そんな栄華を誇ったユースホステルも時代の波には勝てず、現在ではかなりの数の施設が休館となっている。そりゃ相部屋で知らないもの同士が夜な夜な踊り狂う宿が、現代の若者に支持されるはずがない。売りの一つだった「値段の安さ」にしても、いまでは小奇麗なビジネスホテルに5,000円未満で泊まることができる。太刀打ちできるはずがない。

なんとか生き残っているユースホステルにしても、現代っ子に受け入れてもらおうと努力した結果、かつてのような踊り狂う異常なミーティングを行うところは皆無といっていい。

 

しかし、そんな現代において、かつてのような異常ともいえる形態で営業を続けているユースホステルが1か所だけ存在する。

 

「桃岩荘ユースホステル

 

かつて「北海道3大バカユースホステル」の筆頭格とうたわれたこの宿は、北海道の最北端、礼文島にある。

 

僕が「桃岩荘ユースホステル」のことを初めて耳にしたのは、大学2年生の時。

初めての一人旅で東北を旅した時に平泉で出会ったおじさんからだった。

一人旅をしているもの同士が会話をすると、たいてい「どこどこの宿がよかった」「あの宿はやめた方がいい」といった情報交換的な話題になる。その情報をもとに、今後の旅を計画していくわけだ。

その話の中で、おじさんはぽつりとつぶやいたのだった。

礼文島にすごいユースホステルがあってね…。あそこはすごいよ…。ホントに…」

おじさんはなぜか歯切れが悪く、僕が何度詳細を聞いても「あそこはすごいよ…えぇ…。」とお茶をにごすばかりであった。

 

それから3年後。忘れかけていたころに再び桃岩荘が僕の前に姿を現した。

湯布院のユースホステルでアルバイトをしていた時のこと。

その日に宿泊した一人の青年。彼は桃岩荘のヘビーユーザーだった。

興味をもって話しかけた僕に、彼はいろいろと教えてくれた。

以下は彼から入手した情報である。

礼文島の港につくとブルーサンダー号エースで連れていかれる。

・時差があり、日本標準時より30分早い。

・風呂が茶色い。

・夜な夜な踊り狂う。

・禁酒禁煙。

礼文島の北から宿まで8時間かけて歩いてくるイベントがある。

・圧縮弁当。

・夕日に向かって全員で歌う。

・1泊の予定で来た旅行者が結局1か月居ついた。

・帰りのフェリーではみんな号泣しながら港で踊る。

 

もう初めから意味が分からない。ブルーサンダー号エース?時差?圧縮弁当?

そのあまりに濃すぎる情報に、僕は引くことを通り越して、俄然興味を持ってしまった。

そしてその1年後。

社会人になって1年目の夏休み、僕は礼文島と目と鼻の先の稚内までやって来てしまっていたのである。

 

さて、稚内まで来たものの、僕は正直迷っていた。たしかに興味はそそられる。大変気になる。しかし、岩手県でであったおじさんの言葉が、僕を躊躇させる。「あそこはすごいよ…」という歯切れの悪いあの言葉が。

その日に泊まった稚内ユースホステルでは、鬱で仕事を休んでいるという若い女性と、会社を定年し旅に出たおじさんという訳ありな二人に出会った。そしてその二人は、翌日桃岩荘へ行くという。

「えー、それなら一緒に行きましょうよ!迷ってないで!」

休職中の女の子に翌日の予定を迷っていると話すと、あっけらかんとそういった。

彼女は、礼文島の北から8時間歩くという、噂で聞いた例のイベントに参加するために桃岩荘へ行くとのことだった。もう一人の定年おじさんも礼文島の自然を満喫しに行くらしい。彼らは知らないのだろうか。桃岩荘の怖ろしい噂を…。

しかし、若い女の子からの誘いを断れるほど、僕は意思が強くはないので、さっそく桃岩荘へ予約の電話を入れてみた。女の子と一緒に泊まれるなら、桃岩荘も怖くはないのだ。

すると、電話の主は、幾度となくこう尋ねてきた。

「夜遅くまでうるさくて寝られないかもしれないけど、大丈夫ですか?」

本来であれば、眠ることを目的として利用する宿が「寝られないかもしれないけど大丈夫?」と聞いてくること自体おかしいのだが、女の子との出会いにより自分を見失っていた僕は「大丈夫です!」と聞かれるたびに元気よく何度も答えた。

こうして、僕の桃岩荘行きはあっさりと決定したのだった。

 

翌日、休職女子と定年男子、そして僕(10年後には休職男子)の3人は、稚内港から礼文島行きのフェリーへ乗り込んだ。8月の観光シーズンということもあり、船内は旅人でにぎわっていた。礼文島というのは、高山植物の咲き乱れる美しい島としても有名なのだ。果たして、この旅人のうち何人が桃岩荘へ向かうのだろう。

途中、利尻島へ寄港したフェリーは、3時間ほどでかけて礼文島へ到着した。

甲板へ出てみると、何やら港で旗を振り回している一団がみえる。

『お~かえ~りなさ~い!!!』

大声で叫ぶその一団は、よく見ると全員裸足だった。

間違いない。あれは桃岩荘だ…。

港では、さまざまな宿の人がお出迎えをしていたのだが、桃岩荘はすぐにわかった。

この静かな島で、彼らはあきらかに浮いていた。

『おかえ~りなさ~い!!!ささ!桃岩荘へ向かう方はこちらへどうぞ!!』

裸足の一団は、恐るおそる近づいていく我々に対して大変大きな声でそう言った。彼らが指さす先にはトラックの荷台にテントを張ったようなフォルムの、青い車があった。あれが噂のブルーサンダー号エースなのだろうか。

「あ、私たち、ちょっとお昼ご飯を…」

『そ~おですか!!!じゃあ荷物だけでも!!』

「えぇ…。」

いちいち大きな声を出す一団に怖れをなし、どうしてもブルーサンダー号エースに乗る気がおこらなかった我々は、適当な理由をつけて、その場を離れることにした。

『そ~れでは、いってらしゃ~い!!!あとでお迎えにあがりま~す!!!』

 

さっそく桃岩荘の洗礼をうけた我々は、港近くの食堂で採れたてのウニを食べ、ちょっとしたハイキングコースで礼文島大自然の中を散策し、大満足の時を過ごした。

これだけ満喫したなら、もう日帰りで稚内に戻っていいんじゃない?もう桃岩荘とかいいんじゃない?と休職女子も定年男子も心の中で思っていたはずだが(もちろん僕も)、誰一人として口に出すことはできず…。無情にも、お迎えの時間はやってきたのである。

『お~かえ~りなさ~い!!!それではど~ぞぉ~!!!』

その声に導かれるように、ブルーサンダー号エースへ乗り込む我々。というかトラックの荷台にただ乗せられただけだ。道路交通法違反な気もするのだが、桃岩荘では日本の法律は通用しないのかもしれない。

宿のスタッフによると、ブルーサンダー号エースは21世紀の最新の音声読み取り技術が備わっており、大きな声で「出発しんこう~!!」と言わないとエンジンがかからないそうだ。幼稚園かここは。

『それでは、せ~の!!!出発しんこう~!!』

「しゅ、出発しんこう~」

『はずかしがらずに!!もっと大きな声で!!!出発しんこう~!!』

「出発しんこ~!!!(涙)」

無事エンジンのかかったブルーサンダー号エースは、港にいる人々の冷たい視線の中を、桃岩荘へ向けてさっそうと走り出したのだった。

 

途中にあったトンネル(桃岩タイムトンネル)を過ぎる際に、「ここからは桃岩時間です!!!日本標準時から30分早くなります!!!」とかいう、よくわからないアナウンスがあった以外は何事もなく車は走り、10分ほどで、桃岩荘ユースホステルへと到着した。

ニシン番屋として140年前にたてられたという建物は、改装されたためか、思いのほかきれいだった。

受付後は、スタッフが館内をちょこちょこ小ネタを挟みながら案内してくれた。どうやら桃岩荘のお風呂は家庭用の湯舟を一回り大きくしたくらいで、何十人もの宿泊客を捌き切るだけの能力が備わっておらず、すぐに茶色くなるらしい。

その後、スタッフが屋根の上にのぼり、夕日に向かって歌い、そして踊る光景をただ呆然と眺めながら、僕たちは夕食をとった。

そして午後7時半(日本標準時では午後7時)ついに噂のミーティングが始まった。

 

真ん中に囲炉裏のあるだだっ広い広間に集められた(強制的に連れてこられた)宿泊客。その前でギターをもった男性スタッフたちが面白おかしく観光案内を始める。時より宿泊客に対し無茶ぶりをしてくることもあり、僕も思わずNGワードを言ってしまい、被り物をかぶせられるという屈辱を味わったが、思ったよりも耐えられる雰囲気である。大学のサークル合宿のようなノリだ。

しかし、1時間を過ぎたころ、それは突然始まった。

『は~い!それではみなさ~ん!!我々と御一緒に歌っておどりましょお~!!!』

戸惑いもなくさっと広間に広がる一部の宿泊客(たぶん常連客)。それに倣い、戸惑いを隠せないまま広がる、我々新規の宿泊客たち。

『それでは!!まずは!!!月光仮面!!』

月光仮面…。

21世紀だというのに月光仮面である。

当然現代っ子の我々に歌も踊りもわかるわけがない。そもそも月光仮面に踊りはあるのか?

しかし、何事もなく『月光仮面のおじさんがあ!!!』と歌い踊り始める常連客。

『はあ~い!!恥ずかしがらないで~!!!』

戸惑いを隠せない我々新参者に対して容赦なく浴びせられるスタッフの指導。人生で一度も踊ったことのない月光仮面を踊らざるを得ない雰囲気が我々を包んでいく。

『はあ~い!!次はどんぐりころころ!!!』

スタッフの掛け声に躊躇することなく動き出す常連客の皆さん。いい大人が『どんぐりころころどんぶりこ!!!』と叫びながら踊っている光景は恐怖すら感じる。

噂に聞いていたとおりだ…。そして、この異常事態が1時間以上続くのである。

しかし、不思議なことに始まって20分もたつと、この異常事態がなんだか楽しくなってくる。あれだけ戸惑っていた新参者たちも、ふと気づくと『どんぐりころころどんぶりこ!!!』と叫びながら踊っている。全員トランス状態だ。

一番驚くのは、全員シラフでこの状態ということである(桃岩荘は一切飲酒が認められていない)。これはもう、精神が崩壊しているといっていい。精神科の医者を招いて、この状況を見てほしいものだ。

小学生のころ、オウム真理教が社会問題となり、連日、彼らの修行の様子がテレビで流れていた。頭を振り、一心不乱に踊り続ける彼らの映像を見て、「なぜ彼らはこんなにバカみたいに踊っているのだろう?」と疑問に思ったものだが、まさか10数年後に自分が同じような状態に陥ろうとは…。これは一種の洗脳ではあるまいか。

結局、全員よくわからないまま1時間半ほど歌い踊り続け、衝撃のミーティングは幕を閉じた。

そして、祭りの後には、心地よい疲労感と不思議な達成感が残るのだった。

 

翌日、朝の4時半に起こされた僕たちは、よくわからないままブルーサンダー号エースに乗せられ、礼文島最北端のスコトン岬へ連れてこられた。40キロ先の桃岩荘(桃岩荘は礼文島の南の端にある)まで8時間かけて歩いて帰ってくる過酷な行事の始まりである。

この行事は、正式名を「愛とロマンの8時間コース」という。名前も知らないもの同士が8時間かけて協力しながら歩ききることで、愛が生まれ、ロマンに発展する…。実際に年に数組はカップルが生まれているという、独身男性にはたまらないドキドキ企画なのだが、どういうわけかこの日は女性の参加者が極端に少なく、2グループに分かれた結果、僕の所属したグループは男性6人女性1人、唯一の女性も既婚者(夫婦で参加している)という、愛もロマンも生まれようのない状況になってしまった。この状況で40キロ歩くのは、もはや苦行でしかない。

ちなみに、昨晩8時間コース参加者に対する説明会がミーティング後に行われ、その場でグループ編成がなされたのだが、どういうわけか僕と休職女子がそれぞれのグループリーダーに抜擢された。

そして『それでは!!他の皆さんは!!一緒に歩きたいリーダーの方へ並んでください!!』などというスタッフの号令が下ると、愛とロマンに飢えた独身男子たちは、一目散に休職女子のグループへ向かっていった。これは男として当然の行動であるので決して彼らを責めることはできないのだが(僕も行きたかった)、結局僕の方には、定年男子を含めた既婚者(愛もロマンもすでに獲得している人)と、休職女子のグループにあまりに人が集まりすぎた結果、ジャンケンで負けてしぶしぶ回ってきた男性たちがあてがわれた。

愛とロマン満載の休職女子グループ、そして愛もロマンも生まれようがねえ僕のグループ、2つの対照的なグループで、「愛とロマンの8時間コース」を歩いていく。

 

礼文島は平坦な島であり、大きなアップダウンはそれほどなく、とても歩きやすい。そして緯度が高い礼文島では、本州では標高の高い場所でしか見られない高山植物が咲き誇っている。珍しい植物にみんな大興奮だ。

そして、澄海岬やゴロタ岬など風光明媚な名所が次に次に現れ、大変楽しく歩くことができる。最初のうちは…。

3時間も歩くと、礼文島に対して大変申し訳ないのだが、正直言って飽きてくる。初対面であり、しかも愛もロマンも生まれようがないメンバーだからか、当然会話も減ってくる。後ろを歩いている休職女子のグループでは、きっと楽しいおしゃべりに花が咲いているんだろうなあ…。

それでもなんとか歩き続け、途中のちょっとした広場でお昼ごはんだ。

桃岩荘で注文した『圧縮弁当』をほおばるメンバー。市販の透明なプラスチック容器に、ご飯をこれでもかとぎゅうぎゅうに詰め込んで、上にそぼろを乗せただけの、戦時中の日の丸弁当と同じレベルで質素な弁当だったが、4時間以上歩いた僕たちにはどんなご馳走よりもおいしかった。「空腹は最大の調味料」とはよく言ったものである。

1時間ほどお昼休憩したのち、「もう一歩も動きたくない」と誰しもが心の中で思い、抗議の意味を込めて広場でゴロゴロしている中、メンバーの一人が出発の号令をかけ、しぶしぶ歩き出すことにした。

この声をかけたメンバーは、「愛とロマンの8時間コース」に毎年参加しているおじさんで、ルートを完全に熟知しており、方向音痴のリーダー(僕のことだ)に代わって、みんなを先導してくれている。スタートからここまで常に背筋を伸ばしたよい姿勢で腕組みをして歩いており、メンバーのなかでは密かに『仙人』と呼ばれていた。しかし毎年参加ということは、愛もロマンにもまったく縁がないのだろうか。それとも仙人だから愛もロマンも必要ないのかしら。

仙人の話題で多少盛り上がっていた我々。その前に、大きな崖が姿を現した。どうやらこの崖をくだらなければ先へ進めないようなのだが、砂でできているその崖は、上からのぞき込むと、傾斜がほぼ直角に見える。くだるのになんとも難儀しそうなのだ。崖の端には階段が用意されており、当然それをつかってくだるのだろうと僕たちは思っていた。するとである。

『駆け降りるんですよ。』

仙人がボソッとつぶやいた。

そして言うが早いか、彼は直角の斜面に飛び込み、腕組みをしたまま崖を駆け降りていくではないか。その姿はまさしく仙人そのもの…。

難なく下まで降り切った彼は、崖下で腕組みをしたまま僕たちを見つめている。

『さあ、はやく俺のレベルまであがって来い。』

そう言わんばかりに良い姿勢で堂々と立っている。

いやいや!あなた仙人だからできるんでしょ?とメンバー全員が突っ込みを入れるも、彼はがけ下で僕たちのことをいつまでも待っている。

あとから知った話だが、ここは8時間コースのなかで最もスリルにあふれた場所で、怖がっている女の子に男子が気の利いた言葉を投げかけ、手をつないで一緒に崖を駆け降りることで、愛が生まれロマンに発展する胸キュンポイントだったようだ。

そんなこととはつゆ知らず、僕たちは仙人に促されるまま、一人ひとり腕組みをしながら良い姿勢で崖を駆け降りていった。その姿はまさに、仙人のもとで修業に励む若僧のようだった。愛もロマンも生まれやしねえ…。

崖を降り切ると、今度は海岸沿いの岩がゴツゴツした道を仙人に導かれ歩いていく。先ほどの崖での所業をみて、我々の中では、「愛とロマン」の代わりに「仙人をリスペクトする心」が芽生え始めていた。当初は考えられなかった展開である。

海岸沿いをしばらく歩き、船でしかたどり着けないという驚きの集落で電話を借り、桃岩荘に定時連絡を入れる。途中で遭難していないかの確認のために、定期的に桃岩荘への連絡を入れることが義務付けられているのだ。

多少の休憩をとったのち、今度は海岸から斜面を登り、林道を歩いていく。

時計を見ると、すでに午後3時をまわっていた。なんと、歩き始めて8時間を超えているではないか。

そして、日が暮れてくるととともに、気温もぐっと下がってくる。さすがは日本最北限の地、礼文島。ただでさえ日差しの入りづらい林道を、寒さに震えながらとぼとぼと無言で歩いていく。(仙人は相変わらず腕組みをしてよい姿勢で歩いている。)

僕は夏だからということで、長袖はワイシャツ一枚しか持っておらず、寒さに震えながらも、仙人の姿勢を見ならい、できるだけ良い姿勢で歩いた。

 

そして、太陽が地平線の向こうに隠れはじめた午後4時半。僕たちの目の前に、ようやく桃岩荘が姿を現した。

長かった…。結局10時間近くか歩き続けているじゃないか。

『お~かえ~りなさ~い!!!』

夕日に照らされる中、屋根の上に上ったスタッフが相変わらずの大声で我々を呼んでいる。その姿を見た瞬間、僕は不覚にも少し感動してしまった。夕日に照らされたその光景のなんと美しいことか。

そして、わざわざ外に出てきた宿泊客に歓迎されながら、感動のゴール。

一日をともにしたメンバーたちと固く握手をかわし、全員で写真撮影だ。

そんなことをしていると「ああ、なんて素晴らしい一日だったのだろう。」と、いつのまにか満足しきっている自分に気づく。「愛とロマン」なんかなくたってかまわないぜ。

礼文島についた当初、稚内に戻りたいなあと、あれほどビクビクしていた自分が嘘のようだった。

 

そして、2日目の夜がやってきた。

狂乱の一夜が再び幕を開けるのである。

 

3日目。桃岩荘を離れる日である。

昨晩も当たり前のように行われた狂乱のミーティング。

夕食時、スタッフが『たのし~いたのし~いミーティング!!!』とギターをかき鳴らしながらやってきた時には、10時間以上時間歩き続け、疲労困憊だった僕たちは一瞬殺意がわき、危うく殴りかかりそうになるところを必死に抑え、冷たい視線を浴びせかけ、陽気に騒ぐスタッフを撤退させた。

それでも、疲れを押してしぶしぶ参加したミーティングでは1日目同様大いに歌い大いに踊り、充実した夜を過ごしたのだった。1日目に感じた羞恥心はどこへやら。ただただ夢中で踊り狂った。この2日で、明らかに桃岩荘にはまっていた。

 

出発の時、せっかくなので港まで歩くことにした僕たちに、スタッフ、そして宿泊客がわざわざ外へ出て見送りをしてくれた。

昨日、8時間コースをともにしたメンバーからは、『リーダー帰っちゃうの!!もう一泊しようや!!』と温かい声をかけていただき、不覚にも涙が流れそうになった。声をかけてくれた彼は、東京から稚内まで原付でやってきたという。社会人になっていなければ、僕もしばらくここにいついてしまったかもしれない。

桃岩タイムトンネルを抜けると日本標準時にかわる。いよいよ桃岩荘ともおさらばだ。

休職女子も定年男子も、そして一夜をともにしたメンバーたちも、はじめはおしゃべりしながら歩いていたが、トンネルを抜け、現実に近づいてきたあたりから、ただただ無言で歩きつづけた。桃岩荘を離れるのが寂しかったのだろうか。僕も正直寂しい気持ちでいっぱいだった。

港へ到着し、船に乗り込むと、いよいよ礼文島ともお別れだ。

…。

ふと、外から声が聞こえてくる。

『ももいわそうのみなさあ~ん!!!』

声に導かれ、甲板に出てみると、桃岩荘のスタッフ、そして昨日8時間コースをともに歩いたメンバーが港に集結していた。

『そお~れではみなさん!!!ご一緒に!!月光仮面!!!』

港で繰り広げられる月光仮面の踊り。そして、船の上の我々も、昨晩同様歌って踊る。

まさかのミーティングの再現。港や船上の一般人の目線なんてまったく気にせず、ただただ踊り狂う。なんて気持ちの良い時間なんだ…。

そして、出航の時間…。

『そおれでは!!みなさん最後に歌いましょ~う!!とおいせかいへ!!!』

最後にお互いに歌いあったその歌は、「月光仮面」や「どんぐりころころ」とは違い、どこか感傷的な気分にさせる名曲だった。

『あすの~!!せかいを~!!』

「か~えて~ゆこ~お~!!」

隣をみると、休職女子も定年男子も、泣いている。僕ももちろん泣いていた。

『そおれでは!!みなさん!!また、どこかで!!いってらっしゃあ~い!!』

「いって~きま~す!!」

『いってらっしゃあ~い!!』

「いって~きま~す!!」

そのやり取りは、お互いが見えなくなるまでずっと続いたのだった。

 

稚内へ戻ってきた。

3日ぶりの現実世界。3時間前まで踊り狂っていたのが嘘のようだ。

ちょうど乗り合わせた桃岩荘メンバーで、最後にイカを食べにいった。

食事が終わるころ、同席していたライダーの一人がこんなことを言った。

『きっとまたどこかであえますよ。旅を続けていればね。』

バイクでさっそうと走っていった彼の一言がとても心に響いた。

きっと桃岩荘で出会ったみんなとも、どこかで出会えることだろう。

ところで、彼は誰だったのだろう?あんな人、桃岩荘にいたっけ?

定年男子は、稚内から飛行機で帰るということなので、ここでお別れ。固く握手をかわすと、とても寂しい気持ちになる。

休職女子と定年男子、そして僕。稚内で出会う3日前まではまったくの他人だったのに、別れで寂しくなるなんて、なんとも不思議なものだ。これも桃岩荘マジックなのかしら。

休職女子と僕は、引き続き一緒に宗谷本線に乗り南を目指す。

右手に利尻富士を眺めながら、宗谷丘陵をゴトンゴトンと列車は走っていく。

4時間ほどかけて名寄の一駅前の日進駅に到着した。

僕はここで降りる。そして、彼女は美瑛へ行く。ここでついにお別れだ。

「それではまた!」

『またあいましょう!』

そういって握手を交わした僕たちには、桃岩荘で結ばれた深い絆が芽生えたような気がした。(愛は芽生えなかったけど。)

列車を降りるとき、彼女はわざわざ乗降口まで来てくれて、あろうことか『とおいせかいへ』を踊り付きで歌い始めた。

ここは礼文島ではないため乗客の視線はかつてないほど冷たかったが、そんなことも気にせず、僕も駅のホームで踊り続けた。2人とも笑顔だった。

そして、列車が見えなくなるまで、夕暮れのホームで、何度も何度も手を振り続けたのだった。

 

こうして、3日間に及ぶ桃岩荘体験は幕を閉じた。

噂どおりに濃い宿だったが、わずか3日のうちに、すっかり虜になってしまっていた。「また来年も行こう」

名寄のユースホステルへ向かう畑の中の一本道を歩きながら、僕は心に決めたのであった。

 

しかし、これほどまでに感動的な時間を過ごしたにもかかわらず、いざ現実に戻り、あの3日間を思い返してみると「あの狂乱の一夜は何だったのだろう…」「月光仮面を踊るなんて…。ああ、僕はなんて破廉恥なことを…」と恥ずかしさのあまり赤面してしまうのである。そして再訪を決断したにもかかわらず「2度目はいいかなあ…」とあっさりと思ってしまうのであった。僕は洗脳にはかからないタイプなのかもしれない。

 

そして、旅が終わり10年が経った。

自粛生活に疲れ、あまりにも旅に出なさ過ぎたストレスでおかしくなったころ、ふと桃岩荘のことを思い出し、今頃になってこの文章を書いてみた。

当時の写真やパンフレットを見返してみると、10年前のあの旅を、昨日のことのように鮮明に思いだせることに驚いた。それほど、強烈な、そして思い出深い体験だったのだろう。

そして思い出すたびに、なんとも懐かしい、胸がキュンとなる切ない気持ちがこみあげてくるのである。

 

 

台湾再訪@一人でネコ村

豊田村で何もしない苦痛の4時間を過ごした翌日(無事に脱出できた)、花蓮から台北へ戻った僕は、最終日の予定を思案していた。台湾の首都台北は見どころ満載である。世界一の高さを誇る台北101。ショッピングもたのしい西門町。中国歴代王朝の宝物が集う故宮博物院。そして、猫村である。

さてどこへ行こう。

台北101は苦い思い出があるためナシだ。西門町はナウなヤングが集っているため行きづらい。となると、故宮博物院か。もしくは猫村か…。

驚くべきことに、今回で台湾訪問7回を数える僕だが、故宮博物院へは一度も行ったことがなかった。台湾へいったというと、必ず「故宮よかったでしょ?」と聞かれるが、実は行ったことがない。ルーブル美術館とも並び称されるあの故宮へ行ったことがないのである。かの有名な、ガラスでできた白菜の置物を見たことないのである。

台湾を訪れた観光客の99パーセントは行くであろう最重要観光地である故宮博物院。と、猫村。さてどちらへいこうか…。

 

2時間後。

僕は、猫村へ来ていた。

あれだけ煽った故宮博物院はまたもお預けである。

台北から鈍行列車で1時間ほどのところにある猴硐という駅を降りると、そこはあちこちでネコがくつろぐ天国のような場所。だって駅のベンチにネコがねているんだよ!駅前のお土産物屋やカフェも猫仕様。まさにネコ好きの聖地である。夕方の4時過ぎにも関わらず、ネコ好きな台湾人でいっぱい。僕もみなさんにならって、ネコたちといいだけ戯れ、たくさん写真をとり、至福の時間を過ごしたのだった。

なお、この村は日本統治時代から工業?で栄えていたようで、駅から少し歩いた高台には、かつての神社跡があり、日本統治時代の遺構好きの方にとっても大変満足できる場所である。

1時間以上至福の時を過ごした僕は、とっても満たされた気持ちで台北行きの列車へ乗り込み、村を離れたのだった。

 

帰国後、職場で台湾へ行ったことを話した。

『いいなあ~。どこいったの?故宮?』

「いやいや、ちょっとこの写真見てくださいよ!ここ猫村っていうんですよ!」

『へえ~。すごいねえ(棒) 故宮は?』

「いってないですよ。猫村いったので。」

『え?故宮行ってないの?そのわけわかんない村行って?』

「いってないです。」

『…。お前はアホか…。』

 

故宮へ行かず、あえて猫村へ行った僕は、底抜けの阿呆である。

 

なお、これ以降台湾を訪れていないため、僕の台湾の思い出は、いまも猫村でとまったままなのである。

台湾再訪@豊田駅

3年ぶり7回目の台湾で、僕は初心に返ることを決意し、台北到着後、すぐさま東部方面行きの電車へ乗り込み、7年ぶり4回目の花蓮訪問となったのである。

おなじみの日本語が話せるおばちゃんの宿に投宿した翌日、僕は日本時代の痕跡をたどるため、台東県にある日本の神社跡を訪れた。

駅から20分ほど歩いた住宅地にある小高い丘。そこには鳥居や灯篭、そして参道がそのまま残っており、タイムスリップしたかのような不思議な時間を過ごしたのである。

さてその帰り道、僕は豊田村へ立ち寄ることにした。

1度目の台湾の旅で訪れた日本統治期の神社後が残る村。僕が台湾に大はまりする要因の一つともなった村へ再訪である(8年ぶり2回目)。

花蓮行きの急行列車を豊田駅で下車。

駅前には驚くほど何もなかった。

早速グーグルマップを起動させ、例の神社跡へ再訪だ。

台湾初訪問から8年、旅もIT化が進んでおり、スマホという文明の利器を手に入れた僕に迷子の二文字はなかった。

グーグルマップの指示通りに、一面に田んぼやサトウキビ畑の広がる風景の中を20分ほど歩く。実にいい雰囲気である。

前回は花蓮からタクシーでやってきたため道中の雰囲気を味わう暇はあまりなかった。やはり旅は歩いてこそだ。

その時である。

ワンワン!!

もう少しで神社跡に到着というところで、突如野犬と遭遇だ。そういえば前にきたときにもいたよなあ。8年の時を越えて、奇跡の再会である。

おそらくどこかで飼われているのだろうが、鎖でつながれてもおらず、実に自由奔放だ。まるで神社を守る番犬のごとく、僕の行く手を阻もうとする。

僕もバカではないので、別の道を迂回し神社跡へ行こうとするのだが、どの道を通っても彼らは姿を現す。

…。

僕は野犬が嫌いだ。いや、野犬好きのやつがいたらあってみたい。

彼らの脅威におびえた僕は、もう神社なんてどうでもいいんじゃないかという気持ちになり、あっさりと退散した。神社跡など関係ない。この村の雰囲気が味わいたかったのだから。

さて、結局1時間もせずに豊田駅へもどってきた僕は、時刻表をみて心底驚いた。

次の電車は驚きの3時間後である。

花蓮行きの特急や急行はかなりの頻度で走っているのだが、豊田駅のようなローカル駅にはほとんど止まってくれない。基本的には鈍行列車しかとまらないのだ。しかし、3時間ってどうだ…。佐久間かよ。

先に書いたとおり、駅前にはなにもない。ほんとうにコンビニ1ですら件もない。

どうしよう…。

とりあえず、駅前のベンチに座って、スマホでネットサーフィンである。

しかし、グーグルマップを起動させ続けた結果、バッテリーの残りは30%を切っていた。電池切れだけは避けなくてはならない。

どうしよう…。

スマホが使えないのなら歩くしかない。(ちなみに本類は宿におきっぱなしだ。)

もしかしたらなにかお店があるかもしれない…。一縷の望みにかけ、僕は再び神社方面へと歩き出した。

列車出発まで、あと2時間50分…。

 

小一時間さまよい続けた結果、なんと駅の反対側へ抜ける道を発見した。

そこは大きな道路に面しており、すこし離れたところにはコンビニもスーパーもあるではないか。初めから駅の反対側へでればよかったのだ。

1/2の選択を誤った僕は、駅のおもて側(つまり神社跡の方)へ永遠歩いていき、灼熱のなにもないサトウキビ畑の中(季節は夏)をさまよい続けた。

しかも、途中すれ違ったマイクロバスが、豊田駅花蓮駅とを結ぶ、日に2本だけ設定されていたバスだということに気づかないという失態も犯していた。

駅の反対側へ行くことに成功した僕は、とりあえずコンビニへ入り、イートインコーナーでアイスを食べながら休憩。

冷房とアイスで体力を回復したのち、となりのスーパーでお菓子を買い、外のベンチでぼりぼり。だいぶ時間も過ぎただろうと時計を見てみれば、列車の発車時刻までまだあと2時間。ぜんぜん時間がたたねえ…。

ネットでみた「5億年ボタン」というちょっと怖い漫画のことを思い出した。100万円もらえる代わりに、5億年もの長い時間を、寝ることも気を失うことも許されず、ただただ過ごすというお話。豊田駅での1時間ですら耐えられない僕には、5億年なんて絶対に無理だ。

ふとベンチの横を見ると、UFOキャッチャーがおかれていた。なんとも懐かしいそれに200元ほどお金をつぎ込む。200元といえば日本円で800円だ。しかも一個もとれねえ…。

野犬と戯れ、サトウキビ畑の中を歩き回り、コンビニでアイスを食べ、UFOキャッチャーに散財する。これだけ充実したメニューをこなしても、列車が来るまでまだ1時間以上もあるのだ。

以前の旅行記で、この村を「時が止まったかのような村」と書いた気がするが、本当に時間が進まねえ…。というか、まさかこの村は本当に時間が止まっているのでは?もしかしたら、抜け出せないのではないだろうか?

世にも奇妙な物語」で「峠の茶屋」というお話があった。都会暮らしの女性が気分転換に田舎を訪れ、峠にある茶屋で「こんな田舎にくらしたーい」なんてことをいったら本当に抜け出せなくなってしまったという内容だが、まさにいまの僕の状況そのままである。

駅のホームで僕は頭を抱えた。

列車到着まで、まだあと1時間30分もある…。

 

台湾再訪@何度目だ花蓮

台湾の東側は、日本でいう日本海側の風情がある。ようするに、さびれている。

その東側の中心都市が花蓮である。

かつて日本の移民が大勢訪れ、移民村が作られた花蓮の街には、独特の空気が漂っている。僕はその空気が大好きだった。

 

花蓮を訪れたときに必ず泊る宿がある。

その名も「金龍大旅社」(通称:Golden Dragon)。

名前だけは聞こえがいいが、1泊800元(3,500円くらい)の安宿である。

花蓮の駅からは3キロほど離れており、お世辞にも便利な宿とは言えない。

にもかかわらず、僕は7度の台湾の旅のうち、4度この宿を利用している。通算宿泊日数は実に10日を越える。

日本国内はもちろん、ヨーロッパや韓国など様々な場所を旅してきた僕だが、ここまで何回も利用した宿は他にはない。

先にも書いたとおり、ここは安宿なので、設備面では惹かれるところが全くない。テレビも旧式で数チャンネルしか映らない。シャワーはお湯が出るまで時間がかかるし、ようやく出たと思ったら、湯量がとても少ない。ちょろちょろである。

花蓮は太魯閣渓谷への玄関口でもあるため、綺麗で大きなホテルは街中にたくさんある。

それでも、花蓮を訪れると「金龍大旅社」を選んでしまうのは、宿のオーナーのおばちゃんが、日本語ぺらぺらだからなのである。

 

大学のサークル合宿で初めて台湾を訪れた際、中国語が通じず、打ちのめされていた僕たちを優しく迎え入れてくれたのがこのおばちゃんだった。(『台湾紀行』参照)

初めて一人で台湾を旅し、1日半で台湾を3/4周するという奇行を働いたときにも、おばちゃんは優しく声を掛けてくれた。(『ぼっちで台湾』参照)

そして、リベンジを期した学生最後の旅で訪れた際にも、おばちゃんはいつものように僕を優しく迎え入れてくれたのである。(『台湾リベンジ』参照)

 

『台湾リベンジ』から実に6年半、本当に久しぶりに花蓮を訪れた僕は、社会人となりお金もそこそこ持っているにもかかわらず、駅前の中級ホテルではなく、やはり「金龍大旅社」へやってきた。

 

「はいはい、いらっしゃいね。お一人ですか?」

フロントに現れたおばちゃんは、僕を見るなり、いきなり日本語で話しかけてきた。

10泊もしていながら、たいしておばちゃんに絡むこともなかった内気な僕のことは、きっとおばちゃんは覚えていない。なので、おばちゃんにとっては、毎回毎回が初めての出会いである。しかし、一瞥しただけで日本人とわかるのがすごい。台湾人と日本人はやはりどこか異なるのだろうか。それとも、この宿には日本人くらいしか来ないのであろうか。

おばちゃんにとっては初めてでも、僕にとっては6年半ぶりの再会である。姿かたち、そしてキャラもまったく変わらないおばちゃんが懐かしくって仕方ない。

 

「太魯閣渓谷いくでしょ?明日のあさここからバス出るから!」

こちらは行くなど一言も言っていないのに、当然のように太魯閣を勧めてくるおばちゃん(6年ぶり4回目)。あいかわらずである。

しかし、社会人になり「誘いを断る」技術を得とくした僕は、そのお誘いをやんわりとお断りし、そのかわりに自転車を借りて、花蓮の街を散策することにした。

地球の歩き方」最新刊にも書かれているが、この宿ではなんと無料で自転車を借りることができるのだ。

「自転車これ使ってね!鍵もかかるから!」

そういっておばちゃんが持ってきた自転車は明らかに子供用だった。小学生あたりがよく乗っている、ちょっとイキったデザインの青い自転車。190㎝近い身長の僕には小さすぎて、自然と股を開いた「ヤンキー走り」になってしまう。

おいっ!とつっこみを入れたいところだが、無料で貸してもらっているだけに文句は言えない。おとなしくサイクリングへ出発だ。

「いってらっしゃ~い。きをつけてよ~」

 

時代錯誤な「ヤンキー走り」で原チャやタクシーが入り乱れる花蓮の街中を爆走する。

そういえば、『ぼっちで台湾』で20㎞先の清水断崖を無謀にも自転車で目指した時にも、たしかこのマシーンだったっけ。じつに7年ぶりの奇跡の再会である。というか7年も使い古すんじゃないよ…。絶対息子が子供のころ使っていた自転車だろ…。

 

年季の入った子供用自転車ではさすがに何キロも進むことはかなわない。それでも、賑わう市場やアパートの立ち並ぶ住宅街、そして昔、特攻隊員が出発前に集められたという建物などを次々と回った。

台北や高雄に比べて、花蓮の街はそれほど大きくない。街をめぐっても、他の台湾の街とは違った落ち着いた雰囲気が流れている。6年前に歩いて回った時にも同じことを感じた。やはり、この雰囲気が僕はとても好きだ。

そして2時間も「ヤンキー走り」をしていると、僕の股は限界を迎えるのだった。

 

痛みをこらえホテルへ戻ってきた僕は、「アミ族のショーは7時からだよ~」という、これまた過去の旅で嫌というほど聞いた誘い文句に乗せられるがまま、花蓮の夜の定番メニューをこなした。以前の旅行記でも散々ふれたショーだが、6年たっても全く変わっていないのが逆に楽しかった。

バッティングセンターで体を鍛えたのち(6年ぶり4回目)、ホテルの周りをぶらぶら散歩した。

6年ぶりの花蓮の街は、思ったよりも変わっていた。

もともとホテルのあたりには、旧花蓮駅があったそうだ。僕が初めて訪れた8年前にはすでに駅は移転していたのだが、その名残がまだ随所に残っていた。

ホテルの前の広場はきっと駅舎の跡。ホテル横のバス停は、かつてのバスターミナルの名残だと思われた。

今回訪れてみると、ホテル前の広場には夜市が立ち並んでいた。自然発生的に立った夜市というよりかは、行政主導で設置されたという感じだった。

以前訪れたときには薄暗かったホテル周辺は、そのおかげで随分と明るく、そしてにぎやかになっていた。

「こうして街は変わっていくんだろうなあ」

バッティングセンターで痛めた腰をさすりながら、広場の片隅でしみじみ思った。

 

宿を発つ日の朝、バスの出発前におばちゃんに挨拶しようと、ホテルの隣にあるお土産物屋さんへと向かった。

こちらもおばちゃんが経営しているようで、ホテルのフロントにいない時には、たいていお土産物屋さんにいた。店の中をのぞくと、おばちゃんは一人のおじいちゃんとおしゃべりに花を咲かせていた。

「このおじちゃん、先生よ!」

「そうそう!えらいせんせいよ!」

「違う違う!遊びの先生!遊んでばかりいるよ!」

おばちゃんとおじいちゃんの掛け合いは、まるで幼馴染のようだった。そして2人の自然な日本語を聞くと、ここが台湾とは到底思えない。2人とも、日本統治時代に青春時代を過ごした世代の人間なのだ。

おじいちゃんが持っていたラジオからは、なんと夏の甲子園の実況が流れていた。

花蓮は日本のラジオが入るんだ!これが毎年の楽しみね!」

「そうそう!おじちゃん聞いてばっかりで仕事しないんだから!」

異国の地で、高校野球の実況と日本語のおしゃべりを聞きながらバスを待つ。なんとも不思議な感覚なのである。

台湾再訪@一人で日本統治期の史跡巡り

台湾に日本統治時代の面影が随所に残っているというのは、この旅行記で何度も書いてきた。保安駅や飛虎将軍廟、豊田村花蓮など、数々の遺構を訪れてきた。

そんな僕が今回注目するのが、桃園神社だ。台湾中心部から1時間ほど、桃園国際空港がある街に、台湾で最も保存状態のよい神社跡がある。まさに灯台下暗しだ。

桃園駅からタクシーで10分ほど、桃園神社は想像以上に大きかった。

石段を登り鳥居をくぐると、雰囲気が変わった。神社特有の凛とした雰囲気だ。台湾でここまで訪れた神社は、鳥居などの遺構は残されていたが、当然神社としては機能していないため、神社特有の厳かな雰囲気は感じなかった。それが、ここ桃園神社にはあった。

境内を進むと、手水所、狛犬、拝殿と、ほぼ昔のままの形で残されていた。まるで日本にいるかのような錯覚を覚える。かつて、どれほどの人がこの神社にお参りし、祈りをささげたのだろう。今はもう、かつてのように祈りをささげる人はいない。しかし、ここ桃園の街には、日本の魂をもった神社が存在しているのである。

 

翌日、この真面目な流れに乗り、嘉義近郊の副瀬村を訪れた。富安宮という日本人警察官を祭ったお堂があるのだ。

嘉義駅まで台湾新幹線にのり、そこからバスに乗り換える。途中、朴子という比較的大きな街を抜けると、副瀬村につく。バスを降り、さびれた集落を歩くと富安宮だ。

お宮に入ると、目の前の祭壇には警察服を着た像が安置されている。その名も義愛公。

日本統治時代、ここ副瀬村に赴任した彼は、自分の財をなげうってまで村人のために尽くしたそうだ。彼がこの村を離れてからも、村人たちはその感謝を忘れず、そしてついには、彼を神として祭ったのである。

以前訪れた、台南の飛虎将軍廟では、村を救った軍人さんが祭られていた。こういった場所を訪れるたびに、かつての日本人はなんと素晴らしい方々だったのだろう、と感動する。

そして、改めて思うのである。現代に生きる僕も同じ日本人として見習わなくてはならないと…。

さて、かつての立派な日本人を見習って生きていく決意をした僕だが、嘉義への帰り道がどうしてもわからない。

集落をさまよってみてもバス停が見当たらず、当然タクシーもとまっていない。もちろん歩いて帰る根性などない。

そして僕は半べそをかきながらお宮へ戻るのである。

「タクシーを呼んでください(涙)」

とお願いするために…。

100年後に訪れたこの情けない日本人を見て、義愛公は何を思うだろう。涙をぬぐいながら、僕は副瀬村を後にした。