ヨーロッパ紀行 第一夜 パリ

『まもなく、当機は、パリ・シャルルドゴール国際空港へ向け着陸態勢に入ります。シートベルトをお締めになり・・・』

 

…。

やった…。やったぞ…。ぎっくり腰にかったんだ…。

中部国際空港を飛び立ってからおよそ11時間後、着陸態勢に入る日本航空43便の非常口に近い座席で、僕は勝利を確信した。

長かった…。本当に長かった…。

腰が固まるのを防ぐために何度席を立ったことだろう。再発するかもという緊張感から一睡もできず、何度藤原達也主演『DETH NOTE』を見たことだろう。

もう着くころだろと思い、現在どこを飛行しているのか見ることができる例のあれを何度眺めたことだろう。そして、いつまでたってもシベリアの広大な大地を脱出できていない現実に何度絶望しかけたことだろう…。

しかし、いま、眼下にはフランスの大地が広がっている。

僕は耐えたんだ…。やったんだ…。

初めてみるフランスの大地は畑ばかりが広がっていた。街はおろか、森すら見えない。本当に畑だけ。

そういえば、中学校の社会の時、フランスはヨーロッパ最大の農業国だと教わった気がする。

フランスといえばパリ。パリと言えば都会。すなわち、フランスは都会なんだという方程式を頭の中で描いていた僕には、フランス=農業国だという事実がいまいちしっくりこなかったのだが、いま眼下に広がる広大な穀倉地帯を見れば一目瞭然である。

 

ヨーロッパ旅行を初めて意識したのは高校生の頃だった。

「あんな綺麗な街並み、日本にゃないね!」

仕事の関係で年に3回ほどヨーロッパを訪れていた父親から聞かされた数々の自慢話。影響されやすい僕は、すっかりヨーロッパの虜になり、授業も聞かず、ヨーロッパ旅行の妄想ばかりしていた。

うちの父親は北欧に頻繁に出かけていたため、妄想の中の旅先は常に北欧だった。

コペンハーゲンで飛行機を降り、船でストックホルムへ。

そこからは列車に乗り換え、オスロを経て北極圏へ向かう。

そして、最北の地に立った僕は、この世のものとは思えないほど美しいオーロラと出会うのだ…。

大学生になったら絶対に北欧を旅してやる、そう心に決めた僕は、まったく不純な動機で大学受験に邁進していった。

2003年、はれて大学生になった僕だったが、そこには厳しい現実が待っていた。

『パリ往復 20万円!』

『北欧周遊 45万円!』

ヨーロッパへの航空運賃の高さを全く考えずに計画ばかり練っていた僕の前に突きつけられた現実。バイトもろくにしない怠け者学生に40万も出せるわけがない。

第一、一度も海外へ行ったことがない僕にヨーロッパは難易度が高すぎた。飛行機の乗り方は愚か切符の買い方だって分からない。この時点で、国内線の飛行機を2回しか、しかも親同伴でしか乗ったことがない僕が、たった一人で国際線の飛行機に乗る。考えただけでゾッとしてしまった。

飛行機に拒否反応をおこした僕は、大学に入って初めての旅に、交通機関を一切使わない四国遍路を選んだ。極端な男である。そしてその後も、18切符片手に北海道や東北を目指す、国内貧乏旅行にのめり込んでいった。

それとともに、高校時代あれほど夢見ていたヨーロッパへの旅は、次第に僕の頭の中から追いやられていったのだった。

 

2006年、4回生になった僕は、クラブの合宿と称して後輩たちを騙し、台湾へ旅に出かけた。

僕が入ったサークルは、年に一度海外旅行に出かけるという活動内容で、おかげで海外未経験の僕も、香港とグアムという2カ国(地域?)を経験することができた。しかし、いずれもガイドやホテルがしっかりと準備されたツアーに参加したもので、いまいち印象に残らない旅だった。

「なんとか自力で海外へ行けないものだろうか…」

そう考え出したのは、3回生の秋だった。この年の春に四国遍路を制覇、夏には北海道、東北を3週間放浪するなど、多少は旅慣れてきた僕は、それとともに、国内旅行に対し当初ほどわくわく感やスリルみたいなものを感じなくなくなり、ちょっと飽きを感じ始めていた。そして、興味は徐々に海外へと移って行った。

台湾の旅は、(僕の中では)大成功だった。我の強い連中が多いので喧嘩やらトラブルは絶えなかったものの、航空券を自力で手配し、宿も現地で探し、列車やバスにも問題なく乗ることができた。

そして何より、国内旅行では感じることのできなかった妙なスリルがこの旅にはあった。

「いける…」

この旅で自信を深めた僕は、その後一人きりで、台湾、韓国へと旅に出かけた。

言葉も分からない中なんとか無事に旅を終えた僕の中では、再びヨーロッパへの憧れが大きくなっていった。

2007年、なんだかんだで就職を決めた僕は、親を説得して卒業旅行予算の前借りに成功した。

行き先はスペイン。10日間かけてイベリア半島を横断するのだ。実に壮大な計画。2か月前の僕は久しぶりにワクワクしていた。2か月前までは…。

さて、出発1ヶ月前、僕の緊張はピークに達していた。一人で12時間も飛行機に乗れるのか?乗り換えはできるのか?スペインは英語が通じないそうだけど大丈夫なのか?不安は日に日に増していった。

…。

そして出発3週間前。

僕は旅行会社へキャンセルの電話をかけていた。なさけない男である。夢にまで見たヨーロッパ上陸、あと少しで実現できるところを直前で逃げ出し、僕は全く関係のない近場の中国へと旅立っていった。

それから2年後の2009年。

某県某市の某政府関係施設での仕事にもようやく慣れてきたこの年の4月、僕はついに自分の金で念願だったヨーロッパ行きのチケットを手に入れた。行き先はパリ。直行便である。乗り換えをする自信のなさから、また直前になってキャンセルするのを防ぐためだ。

そして大学のサークルの後輩にも同行してもらうことにした。就職も決まり相当暇だったんだろう。彼はホイホイと誘いに乗ってきた。しかも彼は僕よりも一日早く、しかもロンドンへ向かうらしい。

集合は、パリ、モンパルナス駅前に午後5時半。

なんともロマンチック。これが女の子との待ち合わせならどんなに良いか…。

とにかく一緒にいく人がいるということは、もう直前に逃げ出すこともできないのだ。

ちなみに、同行者からはグーグルマップのストリートビューの画像一枚と、「ここに5時半集合で」みたいな飲み会の誘いのような軽いノリのメールがきたのみで、具体的な場所指定はなかった。お互い初めてのヨーロッパだというのに、こんな軽い約束で本当に出会えるのかしら…。というか、ほんとに来るんだろうなあ…。

 

しかし、人生というのはうまくいかないもので、出発までの間にさまざまな緊急事態が僕を襲った。

まず2か月前に新型インフルエンザが大流行した。仕事の関係上、子どもと接することの多い僕は、感染源になりかねないという理由から、社長より渡航の中止を迫られた。

そこは僕の巧みなトークで社長を丸めこみ、なんとか渡航許可を得て危機を脱したかに見えた。しかし出発1ヶ月前、子供たちに柔道の技をかけて遊んでいたところ、なんと3年ぶりにぎっくり腰を発症してまった。子供に柔道の技をかけていて、なんて恥ずかしくて言えないので周りには、「出張の際にちょっと…」とお茶を濁しておいたのだが、とにかく長時間飛行機のあの狭い座席に座るなんて自殺行為です!ダメです!と整骨院の兄ちゃんからも渡航の中止を迫られてしまった。

正直、またいつ発症するか分からない。しかし、このチャンスを逃しては、またいついけるか分からなくなってしまう…。

 当日、僕は整骨院の兄ちゃんの必死の説得を振り切り、中部国際空港へと向かうバスへと飛び乗った。

新型インフルエンザは対策をしたところでかかるやつはかかるだろうから特に対策はしていない(建前上、社長には「万全の態勢で臨みます!」と説明済み)。

問題はぎっくり腰だ。数日前からなんとか普通に歩けるようになったとはいえ、まだかなり違和感がある。僕は、搭乗手続きの場で日本航空のお姉さんに泣きつき、いざとなったら土下座をする覚悟で交渉し、非常口付近の足の延ばせる多少広めの席をゲットすることに成功した。そして空港内の薬局へ向かい、店にある温シップを大量に買い込み搭乗口へとむかった。

「とにかく腰を温めて血の流れを良くしなくてはいけない、さもないとまたぐぎっといくよ」

整骨院の兄ちゃんに言われた通り、腰を冷やさないため、僕は出発30分前にトイレへと籠り、先ほどの温シップを腰やらお尻やら背中やらにとにかくあらゆる場所に貼りまくった。隣の座席の人にとってはさぞかし臭かったことだろう。しかし、今は隣の人のことなんか考えていられない。

とにかく、飛行機の中で再発するのだけは避けなくてはならない。

『お客様の中に接骨院にお勤めのかたはいらっしゃいませんか?』などとスチュワーデスのお姉さんに叫ばせるなんて恥ずかしくてできるはずがないのだ。

パリまで無事に到着できれば、再発しても病院に駆け込めば何とかなるはずだ(フランス語でぎっくり腰ってなんていうのだろう…?)

周りの楽しそうな乗客たちの中で、僕はただ一人緊張と不安に包まれていた。

しかし、もう逃げ出せない。なんてったって同行者はすでにロンドンに着いちゃているんだから。今日の午後5時半(現地時間)にはモンパルナス駅にきちゃうんだから。

頼む!もってくれよ…。

僕は祈り続けた。腰の無事を必死に祈った。最悪墜落してもいいから俺の腰よ!もってくれよ…。

そして…。

 

『ただいまより日本航空43便パリ行きの搭乗を開始します』

 

もう逃げられない。たのむぞ…。

覚悟を決め、僕は搭乗口へと一歩一歩歩いて行った…。

 

 

 

定刻どおりパリに到着した飛行機を降り、荷物がぐおんぐおん回ってくる例のアレの前で、なによりも先に僕は腰をいいだけのばした。

よかった…ほんとによかった…。

パリについて速攻で救急車を呼んで、接骨院に向かうという恥ずかしいイベントを回避できてホントによかった…。

 荷物を受け取りバス乗り場へ向かう。空港内の広告で知っている会社が全くないのが、アジア圏を離れたことを強く実感させた。これが台湾なら、普通に日本企業の広告があるのだけれど。

 パリ・モンパルナス駅行きバス乗り場には小さなカウンターがあり、切符売りのおじさん(パリジャン)がぼけーと座っていた。いよいよパリジャンとのファースコンタクトである…。

「ぼ、ぼんじゅーる…」

『ボンジュール!日本人、パリ市内までいくのかい?』

「えーっと…、モンパルナスすてーしょん、アン!!(人差し指を立てながら)」

『はいはい。じゃあこれがバスの切符、大人1枚だ。Have a nice day!!』

「め、めるしぃ…」

…。

パリジャンおしゃれすぎだろ…。

バスの切符売りのおじさんが『Have a nice day!!』ってどういうことだよ…。

中国でなんか切符なげつけられたぞ…。

フランスとの最初の遭遇は驚きばかりであった

 

空港発のバスは1時間ほどでパリ・モンパルナス駅へ到着した。パリまでの道中、車窓に広がる広大な麦畑、おとぎ話に出てくるようなかわいらしい村、街行くパリジェンヌの姿…、などなど、これぞフランスという景色に完全に魅了されていた僕は、一つ一つに歓声をあげ、車内のみなさんに多大な迷惑を掛けながらバスを降りた。

しかし…。

なんだこの殺伐とした空間は…。

モンパルナス駅前は、先ほどの素晴らしい景色はどこへいったの?というくらい180度反対の驚きの風景だった。おとぎ話のようなかわいいおうちは?パリジェンヌはどこ?

なんといっても、まず薄暗い。先ほどまでの、あのまぶしい夏の太陽はどこ?

次にゴミだらけ。ペットボトルや紙ぶくろなどあらゆるゴミが散乱している。

そして、黒人しかいない。僕が思い描いていたパリジェンヌはここにはいない。

しかも、その黒人男性たちがそこら中でボールを蹴ったり、hip hopしたり…。

僕は別に黒人に対して差別的な考えを持っているわけではない。しかし、ここまでリアルな黒人(本当に肌が黒い!)を初めて見た。そんな彼らが、薄暗い駅前でhip hopしている姿は正直相当怖い。

現在時刻午後5時。サークルの後輩との待ち合わせ時間までまだ30分ある。

こんな世紀末な駅前で30分もいたら間違いなくカツアゲだ。

ちなみに、僕は身長が186㎝ある。そのためか日本ではカツアゲにあったことはない。しかし、この世紀末な駅前に屯する黒人たちは確実に僕よりもでかい。フィジカルエリートたちである。

こわいこわい…。

僕はとりあえず、大きなリュックを背負いながら駅の中をぐるぐると歩き続けた。だって止まっているといつhip hopに声を掛けられるか不安なんだもん。

しかし、12時間狭い飛行機の座席に座り続けた腰は、限りなく限界に近づいていた。痛い。10分ほどで歩行困難者となり、しぶしぶhip hopの真ん中のベンチへ…。

…。

明らかに周りからの視線を感じる。あきらかにhip hopが僕を狙っている…。

平静を装ってペットボトルの水を飲んではみるが、その手は明らかに震えていた…。後輩よ、はやくきてくれー。

10分ほど震える手でペットボトルを持ちながらhip hopの視線に耐えていると、ふと視目の前から大きなリュックを背負った一人の東洋人が歩いてきた。いつもとかわらないゆったりとした歩き方。彼こそ噂の後輩、あやふみ氏だった。人との待ち合わせでこんなにもうれしかったことはかつてあっただっろうか。腰の痛みをおして、僕はあやふみ氏のもとへとかけよった。

 

 

はたして、旅のお供と無事合流を果たした僕は、あやふみ氏が予約しておいたホテルへチェックインし、さっそく夕方のパリの街へ繰り出した

午後の6時とはいえ、夏のパリはまだまだ日が高い。ちなみに日本との時差は7時間のため、日本では現在深夜1時。どうりで体が重たい。

しかし、そんな時差ぼけすら忘れてしまうほど、やはりパリの街は素晴らしかった。

スリが頻発するという悪名高い地下鉄にのり、とある駅で途中下車。駅をでてまず目の前に姿を現したのはセーヌ川

川沿いをしばらく歩くと目の前にはあのエッフェル塔

エッフェル塔を見ながら途中の屋台で買ったジュースを片手に、適当に路地裏をぶらつく。ふっと大きな通りに出たと思ったら、目の前には凱旋門の姿が。なるほど、この通りこそ、あのシャンゼリゼ通りだ…。

 

パリおしゃれすぎだろ…。

僕もいろいろと紀行文的なものを書いてきたが、ここまでおしゃれな単語が並ぶことがかつてあっただろうか。

霊山寺だ太魯閣渓谷だ、なんて読むのかわからない漢字ばかりだった文章も、横文字になればこうもおしゃれなものにかわるのか。

ただ一つの汚点は、旅の相方が女の子ではなく後輩のむさい男であるということだけなのだが、いままで基本的に一人で旅をしてきた僕にとって、話し相手がいるというのは純粋に楽しい。たとえそれが、むさい男だったとしてもだ。

 

しかし、確かにパリの街は美しいのだが、この花の都で、そしてこのシャンゼリゼ通りでは、ぼくたちむさい男は明らかに浮いていた。先ほどのモンパルナス駅とは違い、ここではパリジャンおよびパリジェンヌがあふれかえっている。

薄汚れたズボンとパーカーを着た2人の男たちにとっては完全アウェーな状況である。悲しいかな、僕たちのホームはやはりhip hopで賑わうモンパルナスなのである。

一通りパリの名所をまわり、ホーム(モンパルナス)へ戻ってきたのは午後の11時。日本は朝の6時…。学生時代以来となる完徹である。