台湾再訪 その1 原住民の村
多納村である。
台湾にリベンジを果たした1年後、見事社会人になった僕は、多納村を再訪していた。
屏東からバスで大津へ、大津からは客待ちのタクシー運転手にいわれるがままタクシーに乗車し、なんなく多納村へ到着だ。社会人になり、お金を手にすると、途端にタクシーを使いだす。
多納村は、当たり前といえば当たり前だが、1年前と全く変わっていなかった。のんびりとした雰囲気も、道端で居眠りするネコも、そして宿のおばあちゃんも…。
「先生!下に温泉あるからいってきな!」
あいかわらず、おせっかいなおばあちゃんである。
村を歩いていると、偶然にも結婚式が行われていた。
ルカイ族の民族衣装に身を包んだ美男美女が、幸せそうに式に臨んでいる。村中の人たちが集まっているのではないかと思われるほどの人だかりだ。子供たちからお年寄りまで、男性も女性もみんな民族衣装をまとっており、とても華やかだ。
僕もちゃっかり結婚式に参列である。
その夜、例の民宿の居間でおばあちゃんと雑談していると、同宿の日本人女性(おばちゃん)も話に加わってきた。
このおばちゃん、なんでも看護師らしく、半年くらい一気にはたらき、その職場をやめ、ためたお金で数か月自由気ままに旅をするらしい。うらやましすぎる…。
おばちゃんは夕食としてカップラーメンを食べていたのだが、それを買ったお店での話をしてくれた。
『そこのお店のおばあちゃんがね、日本語ぺらぺらでさ。なんでも、日本統治時代に日本人の警察官と結婚したとかで、もうほとんど日本人よね。その当時のことをいろいろと教えてくれたのよ。』
その話をきき、俄然興味を持った僕は、翌日、さっそくそのお店へ行ってみた。
『は~い、いらっしゃいねえ』
見た目100歳くらいなんじゃないかと思われるおばあちゃんが、のんびりとお店の奥から現れた。おばあちゃんはゆっくりとイスに腰かけると、昔のことをお話ししてくれた。
いまから80年ほど前、おばあちゃんは、ここ多納村に生まれた。原住民の間では日本語が公用語となっており、おばあちゃんも小さいころから日本語の中で育ってきた。そして、日本から多納村へ派遣されてきた警察官と結婚することになった。その警察官は愛知県からの移住者で、それ故おばあちゃんも愛知県訛りの日本語を話す。
終戦により、公用語が中国語に変わったが、おばあちゃんはうまく話せなかった。終戦時に20歳を超えていたわけだから、完全に日本人である。いまさら中国語を話すには相当の努力が必要だろう。そのため、いまでも日常の会話は日本語だ。中国語は孫と話すために必死で勉強しているそうだ。最近、病気で高雄の病院へ入院していたようだが、故郷である多納村が恋しく戻ってきた。かなりの高齢だ。もしかしたら先が長くないのかもしれない。
『あのころがなつかしい…。』
お話の途中、おばあちゃんは遠くを見つめて、そうつぶやいた。
それが印象深かった。
おばあちゃんに挨拶をし、その場を離れた。
そして、宿のおせっかいおばちゃんにお礼を言い、呼んでくれたタクシーに乗り村を後にする。
別れ際、おせっかいおばちゃんは「また会いましょう」と声をかけてくれた。
車窓に流れる村の風景を眺めながらふと思った。またこの村へ来ることがあるのだろうか、と。
仮にその時が来たとしても、きっと今日出会ったあのおばあちゃんは、この世にいないだろう。いや、もしかしたら、宿のおせっかいおばちゃんも…。
終戦からすでに70年近くたっている。日本統治期に生まれ、青春時代を過ごした世代は90歳近い。
日本語を普通に話す世代の方々と出会える、最後の時期ともいうべきこの時代に台湾へ来ることができて、あらためてよかったと思う。