ヨーロッパ紀行 第22夜 シエナ ローマ
今回の「フィレンツェ・ローマ6泊8日の旅」は、フィレンツェ3日間(といっても初日は深夜着)とローマ3日間の日程が組まれているのだが、前述したように決まっているのは飛行機とホテルのみで、あとはご自由にお過ごしくださいという放任主義。つまり、フィレンツェからローマまでは自力で移動をしなくてはならない。
ミケランジェロ広場からの夕景を満喫した翌日、僕たちはフィレンツェから日帰りで、トスカーナの片田舎にあるシエナという街を、おなじみ旅のパートナー『地球の歩き方』片手に路線バスを乗り継ぎ訪れた。
人口5万人ほどの小さい街だが、旧市街全体が世界遺産に指定されており、石造りの家々と入り組んだ細い道路、そして中世の時代から街の中心だった広場は大変美しかった。街はずれの教会から望むシエナの街は、時計台が聳え立ち、「魔女の宅急便」の世界そのものだった。
といっても、世界史に疎い我々は、「シエナ共和国の中心都市として栄え~」などという案内板の説明にも大した興味を示さず、広場に出ていた観光客目当てのカフェでカルボナーラを食べ、おみやげ物スタンドでお買い物をし、半日ほどでシエナの街をあとにした。フィレンツェまでの帰り道、バスはトスカーナのブドウ畑の中をひた走り、とても爽快だった。奥さまは時差ボケもあり、ずっと寝ていた。
さて再びフィレンツェに戻った僕たちだったが、正直すでにすることがなくなっていた。前述したように、フィレンツェの街というのはそれほど大きくなく、正直丸1日歩きつづければ主だった見どころは制覇できるのである。端から端まで歩いても、1時間ほどでいけてしまうのだから。
そしてなにより、僕たちは世界史に疎い。メディチ家とかルネサンスとかいわれてもよくわからないのだ。
結局、ホテルでゴロゴロしたり、市場などでお土産を物色したり、ホテルの朝食会場でアルバイトしている係りのイタリア人男性(とても格好良い)と写真をとったりと充実した午後を過ごし、この日は終わった。
さて4日目。いよいよローマへ移動である。
ホテルから5分ほど歩いたところにあるフィレンツェサンタマリアノヴェッラ駅(長い)は、フィレンツェで思い思いの時を過ごした旅人たちであふれかえっていた。
以前にもどこかで書いたような気がするが、僕は旅人であふれかえったヨーロッパの駅がとても好きだ。様々な言語が飛び交う、島国の日本ではなかなか味わうことのできない国際色豊かな光景は、ヨーロッパの旅のハイライトである。
地べたに座って眺めるその光景は、5年ぶりだというのに、僕の心をつかんで離さなかった。
それはいいとして、どうしてイタリアの駅は乗り場がコロコロ変わるのだろう…。電光掲示板を眺めていると、はじめ1番線だったものが3番線にかわり、さらに5番線に変わったのち、出発5分前に1番線に戻っている。客を乗せたくないとしか思えないこの所業。もちろん、僕たちの電車もコロコロ乗り場が変わり、乗車失敗という致命的なミスを犯しそうになったことは言うまでもない。
そんな状態なのでどんなボロイ列車がくるか心配したもんだが、日本の新幹線のような大変きれいな列車で一安心。さすがはG7の一員。立派な先進国なのだ。
ただ、乗客のモラル的な部分を話すと、車内でガンガン携帯で話すなど、さすがラテン民族国家だと言わざるを得ないくらい騒がしいのである。
2時間ほどでローマへ着いた。
列車を降りてみると、フィレンツェと比べてとても暑い…。日差しの強さが全然違うのである。
そして、やはり首都だけあり、駅周辺は人、人、人でさっそく疲れてしまった。
『Japanese!!ヨウコソ!イラッシャーイ!』
ホテルまでの道すがら、隙さえあれば声をかけてくる食堂のおじさんたち。さすがはイタリアだ。ほかのヨーロッパの国々ではみられない光景。どちらかというとアジアに近い雰囲気。
『Oh ザンネン… マタアトデネ~』
無視してもへこたれないこの姿勢も、さすがイタリアである。
あらかじめ予約されていた駅前のホテルにて、英語がまったくわからず、四苦八苦しながらもなんとかチェックインした僕たちは、フィレンツェのホテルに比べてえらく狭い部屋にもめげず、真夏の日差しの中、旅行者の義務である観光へと出かけた。
しかし、フィレンツェから2時間ほど南下しただけで、ここまで気候がかわるのか、というくらい、日差しが強い。この日差しの強さはスペインに近い。
ここはもう、南ヨーロッパなのだ。
酷暑の中、大注目スポットであるコロッセオ、昔のローマの街並みが残るフォロロマーノを順調に観光していく。
さらっと「昔」と書いたが、案内看板を見ると、2,000年近く前とのこと。日本では弥生土器だ稲作だと大騒ぎしていた時代に、はるか遠くのローマではこんなバカでかい建造物を作っていたのだ。
しかも、その時代の建造物が2,000年後も普通に残っているのが怖ろしい。歴史の奥深さが日本とはけた違いである。
なんでもこの建物は「ローマコンクリート」というらしいのだが、弥生時代に普通にコンクリートがあったことが衝撃だ。
そして、現代のコンクリートよりもかなり丈夫らしい。現代のコンクリートで建てられた建造物は100年ほどで崩れてしまうと聞いたことがある。一方ローマコンクリートは2,000年である。ローマ人とは何者なのか…。
ローマの街を歩いていると、歴史の感覚がくるってくるのがよくわかる。
道沿いに立っている観光地でも何もない小さな教会、その案内板をみると「創建AD230年」みたいなことが普通に書いてある。(ADとは紀元後、BCが紀元前)
西暦230年といえば卑弥呼の治世である。
たまに「創建AD700年」なんて教会があろうものなら、「なんだなんだ、けっこう最近じゃないか、つまらないの」とたいして興味を抱かなくなる。AD700年といえば、日本でいえば法隆寺レベルだ。
法隆寺レベルでも最近と感じてしまうほど、ローマの歴史は長く、そして奥深いのである。
歴史の奥深さに感銘を受けた僕たちだったが、しかしこの日差しにはかなわない。
露店でスイカを食べ、ジェラート(抜群のうまさ)を食べ、そして冷房がガンガンきいたローマ三越で休憩し、最後は三越の近所の日本人がたくさん訪れそうな、日本語のメニューが堂々と掲げられたレストランで、パスタとワインの夜ご飯を食べ、この日は終了だ。
ホテルまでの帰り道、駅周辺はやはり人でごった返していた。
観光客だけではなく、仕事帰りのサラリーマン、近所の若者、夜ご飯の買い出中と思しきおかあさん。そして、あいかわらず声をかけてくる、ホテル近くの食堂のおじさんたち…。
『Oh!Japanese!モドッテキテクレタノ!イラッシャーイ!』
あいかわらずのこのうざさ。
ホテルまでの通り道だけに避けて通ることもできない。
しかし、翌日以降、このおじさんたちが僕たちの救世主となろうとは、この時はまだ知る由もなかったのである。