ヨーロッパ紀行 第18夜 ゲルゼンキルヘン 

今日こそは早起きだ!との決意を込めて旅行者とは思えないくらい早く眠った結果、朝7時台の電車に乗ることに成功した。社会人5年目ともなると、早起きもできるようになってくる。

旅も本日を含めて実質あと2日。

昨日、抜群の不味さのチャーハンを食べた後、切符を買おうとおなじみの自動券売機を操作していたところ、なんと切符購入以外に乗り換え案内機能がついていることを発見。さっそくパリまでの経路を検索してみると、当日中に到着するのは不可能だという衝撃的事実が判明した。

フランクフルトからパリまで直通のICEが走っているのだが、1日一本しか設定がなく、早朝にハノーファーを出発してもフランクフルト発の電車には間に合わないのである。

残る手段は2つ。

1つ目は、スイスのチューリッヒまでICEで移動し、翌日チューリッヒからパリへTGVで直行するパターン。ただし、TGVは1日一本しかなく、ドイツ国内からは予約ができないため、確実に乗れるかどうかという不安がある。さらに物価の高いスイスで宿探しをしなければならない。

2つ目は、ドイツのケルンを経由し、ベルギーのブリュッセルへ、そして翌日にブリュッセルからTGVでパリを目指すパターン。ブリュッセルからパリへの列車は1時間に一本は設定されているため、おそらく乗れる。仮に乗れなかったとしても、ブリュッセル~パリ間には高速バスも走っているようなので、何らかの手段でパリへ行くことは可能と思われる。

スイスをとるか、ベルギーをとるか。

チャーハン(ピーナッツバターがけ)の口直しにビスケットをほおばりながら熟考した結果、僕はベルギーのブリュッセル行チケットを購入した。

ワッフルとチーズホンデュなら、どう考えてもワッフルを選ぶ。小便小僧も魅力である。

行程的には、ハノーファー → ケルン → ブリュッセルというかたちになるが、僕は余裕がないにも関わらずちょっと寄り道をすることにした。

ハノーファーからケルンへ行く途中、ドルトムントという街を通る。いわずと知れたサッカーの街、香川真司所属のボルシアドルトムントのホームである。さらにドルトムントの隣には、ゲルゼンキルヘンという街がある。ここは内田篤人所属のシャルケ04のホームなのだ。香川をとるかうっちーをとるか。僕は悩みながら眠りについた。

 

朝7時台のICEにのり2時間ほど、僕はドイツ中西部の街、ルール工業地帯に位置するドルトムントで下車した。

そしてすぐさまゲルゼンキルヘン行きの鈍行列車に乗り換えた。香川よりうっちーをとったのだ。

というか、香川はもうドルトムントにはいない。今年の夏にマンチェスターユナイテッドへ移籍してしまったのだ。それならば、うっちーがいるゲルゼンキルヘンへ行くしかない。

はっきりいって、うっちーに会えるとは1%も思っていない。とりあえずスタジアムには行ってみるつもりだが、試合開催日でもないのだから見られるわけがない。

ゲルゼンキルヘンの駅前は、他のドイツの街とはことなり、どこかさびれた感があった。元々は炭鉱で栄えた街であり、鉱業が衰退するとともに街もさびれていってしまったようだ。日本でいう夕張や筑豊のパターンである。

ゲルゼンキルヘン駅からシャルケのスタジアムまでは路面電車に乗っていく。荷物を駅のコインロッカーにあずけ、いざ出発。

路面電車の車窓から見える街並みも、今まで訪れたドイツの街と違ってどこかさびれている感じがしたが、沿線のアパートや商店のいたるところにシャルケの旗が飾られていた。ドイツブンデスリーガの強豪であり、数年前にはチャンピオンズリーグでベスト4にも進出したシャルケは、衰退した街の数少ない希望なのかもしれない。

スタジアムは街の郊外のスポーツ公園みたいな、緑あふれるなかに建っていた。外観だけでもとんでもなく迫力がある。なんといっても8万人くらい収容できるのだ。日本では8万人収容できるサッカー専用スタジアムはないのではなかろうか。こんなに巨大なスタジアムが、一地方都市に建っているのだから、やはりドイツのサッカー文化は恐ろしいものがある。日本代表が相手にならないのもうなずける。

スタジアム周辺をうろうろしていると、すぐ隣にサッカーコートがいくつもあり、その一角で何やら人だかりができていた。近づいてみると、なんとシャルケの選手と思われる人たちが練習しているではないか。そしてシャルケサポーターと思われる方々がコートを囲み、思い思いに見学している。

えっ?なにこれ?練習ってこんなに一般公開されているものなの?だってすごく近いよ。こんなのスパイし放題じゃん。

僕もちょっとドキドキしながらコートに近づいてみる。

ちょうどゴールキーパーが練習しているコートの横をとおるが、シュートが早すぎて怖い。コートは周りをフェンスに囲まれているのだが、ゴールを外れたシュートがフェンスに当たるたびにものすごい音が響く。

隣のコートではフィールドプレーヤーと思われる一団が用具を片付けていた。なんだ、もう練習終わりか。時計を見ると11時を回っている。午前中のチーム練習はこれでおしまいのようだ。クラブハウスへと引き上げていく選手たち。そして選手たちの周りを囲むサポーターたち。距離が近いなんてもんじゃない。触り放題じゃん。すごいなドイツ。

『キャーキャー!!』

サポーターたちの一角に陣取っている女性たちが騒ぎ出した。よく見るとドイツ人ではなくアジア系の顔をしている。こんなところまでわざわざやってくるなんて、なんと熱心なサッカーファンだろう。

あっ…。うっちーだ…。

キャーキャー騒いでいる彼女たちに囲まれる一人の男は、まぎれもなくうっちーだった。ホントにいるんだ、うっちーって…。

彼女たちはうっちーにサインをねだり、ずうずうしいことに一緒に写真なんぞもとってもらっていた。そのうっちーを、チームスタッフがいじり、うっちーがスタッフを小突いている。動いてるようっちー…。

僕はすかさずカメラを取り出し、遠くからうっちーを撮影。だって近づくの恥ずかしいんだもん。きゃぴきゃぴした日本人女子の中に、190㎝近い短パンの男がきゃぴきゃぴして入ってごらんなさい。うっちー逃げるぞ。

近づきたい。でも近づけない。そんな乙女のような心でもじもじしているうちに、うっちーはクラブハウスへはいって行ってしまった。

あーあ、行っちゃった…。

目的を達成したきゃぴきゃぴ女子たちは、まぶしいくらいの笑顔でその場を離れていった。というか、うっちーに会いにドイツに来るなんて、なんとバイタリティあふれる女子たちなんだろう。尊敬する。

まあ仕方ないさ。僕は別にうっちーに会いに来たわけじゃないんだから。見ることができただけでもラッキーだったと思わなくてはいけないのさ。

そう自分に言い聞かせた僕は、練習場コートのはずれにあるオフィシャルショップでシャルケグッズを物色。ちょうど2か月ほど前に、スペイン代表のラウールがシャルケを退団したこともあり、ラウールグッズだらけだった。ラウールがいたらサインほしかったなあ。

時計の針を見ると間もなく12時。ケルン行の電車は午後1時半ごろの出発なので、そろそろ駅へ向かわなくてはいけない。最後にもう一度練習場を見に行こう。

そう思いながらコートの周りを散歩しているとどこからか僕を呼ぶ声が…。

『Hey! Japanese!』

声のする方をちらっとみると、声の主は練習場の隅で営業しているホットドッグ屋さんのおばちゃんだ。いわゆる客引きだろう。こういうのは無視するに限る。

『Hey! Japanese!』

『Japanese!Come on!

あー!しつこいな。と、おばちゃんのほうを振り向くと、なにやらおばちゃんが僕の左斜め前方を指さして『あっちよ、あっち!』みたいなことを言っている。なんだ?僕はおばちゃんの指さす方向を見てみた。すると…。

あっ、うっちーだ。

なんと、おばちゃんの指さす先では、うっちーがベンチに座りインタビューを受けているではないか。

なんてこった!おばちゃんどうしよう!

興奮を抑えきれず、思わずホットドックやのおばちゃんに日本語で話しかける僕。

『ほら、いってみたら!サインもらってきなさいよ!』

おばちゃんは促すものの、あきらかにうっちーは取材中。しかもその横では、次の記者が取材まちをしている。こんな状況で行けるわけがない。

ホットドック屋の前でモジモジしている僕を見て、おばちゃんはきっと恥ずかしがっていると思ったのだろう。

『もう、しょうがないわねえ』

みたいな感じで、僕の背中を押し、うっちーのほうへと近づけていく。

でも、近づいたはいいけど、僕はペンを持っていない。

「おばちゃん、I have a no pen!」

『No pen?OK!』

そうか、ペンがないからモジモジしていたんだな。そうおばちゃんは思ったのか、なんと次の取材をまっている若い女性記者にドイツ語で何やら話すと、おもむろに彼女の手からサインペンを奪い取った。明らかに嫌悪感を示す女性記者。そして、そのペンを僕に握らせるおばちゃん。これじゃ、明らかに僕が頼んだみたいじゃん、記者のお姉さんからペンを奪うように…。

女性記者の反日感情を煽るやり取りをしていると、うっちーが立ち上がり、取材していた記者と握手している。一人目の取材が終わったようだ。

『さあ、いまよ!』

そういわんばかりに、僕をうっちーの前に立たせるおばちゃん。こうなったら自棄だ。

「あ、あのすみません…。サインしてもらえますでしょうか…」

『あ、いま取材中なんで。』

…。

怒られた…。うっちーに怒られた。年下のうっちーに怒られた…。

おい、おばちゃん!怒られたの、あきらかにあなたのせいじゃないか!

怒りに震え後ろを振り返ると、すでにおばちゃんの姿はそこにはなかった。よくよくみると、ちゃっかりホットドック屋さんに戻って何事もなかったようにふるまってやがる。この野郎…。

こうなったらこちらにも意地がある。

僕の眼前、20メートル先では、うっちーと女性記者(僕にペンを奪われた人)の対談が始まっていた。うっちーはちょうどこちらを向いている。僕はあえてうっちーの視界に入る位置に設置されているベンチに腰掛け、取材が終わるの待つことにした。このまま引き下がるわけにはいかない。怒られたまま、日本へ帰るなんて絶対できない。

僕は、「あーなんてきれいなスタジアムなんだろう、ほんとに空も広くてきもちいいなあ」といった感じで、時折ベンチから立ち上がり、しばらく伸びをすると再びベンチへ座りという行動を何度も繰り返した。挙動不審である。

どうでもいい情報だが、僕とうっちーは出身地が同じである。(正確には隣町。)伊豆は、山と海に囲まれ食料に困らなかったため、昔から争うことがなかった。その先祖の血を引き継いだこともあり、伊豆の人間は基本的にのんびり屋さんで争いを好まないといわれている。そんな伊豆が生んだ久々のスーパースター、それがうっちーなのである。(ちなみに、うっちーの前のスターは研ナオコだ。)

さて、どれくらいたったことだろう。そろそろ電車の時間にも間に合わないのではないだろうか、しかしここまで来て引き下がるのも悔しい、などと思っていると、やおらうっちーたちが立ち上がり女性記者と握手をしだした。ついにインタビューが終わったようだ。

それを見て、少しずつ、じわりじわりとうっちーに近づいていく僕。しかし、先ほど怒られたので若干の気まずさから声がかけられない…。

その時である。

『サイン?』(ジェスチャーで書く真似をしながら)

「は、はい!」

なんていいやつなんだ、うっちー…。取材中に声をかけてきた僕に、取材中に視線の先で挙動不審な行動をしていたこの東洋人にサインをしてやるですって。

顔もかっこよくて、サッカーも上手で、さらに心も男前とは。天は二物を与えるどころの話ではない。神様は実に不公平である。

震える声で返事をし、駆け寄る僕。しかし、うっちーまであと5メートルに迫ったところで、僕は恐ろしいことに気がついた。

サイン色紙持ってない…。僕がいま持っているものは、『地球の歩き方』にパスポート、そして財布だけである。荷物のほとんどは、ゲルゼンキルヘン駅のロッカーに預けてある。さすがにパスポートにサインしてもらうわけにはいくまい。だからと言ってボロボロの「地球の歩き方」に書いてもらうのは失礼だ。とりあえず、ペンだけは持っている。というか、これも記者のお姉さんの私物なんだけど。どうしよう…。というかこれだけ待っている時間があったなら、ショップでグッズでもかってこいよ。

眼前にせまるうっちー。そして、手を差し出す彼にペンをわたしたのち、僕は驚くべき行動に出た。薄汚れたポロシャツの裾を引っ張り、ここへ書いてくれと頼んだのだ。ベルリンで買ったサッカードイツ代表のポロシャツ。2日間洗わずに着ているから多分くさい。それを、日本代表のスーパースターに差し出したのだ。

僕の予想外の行動に一瞬戸惑ったように見えたうっちーだったが、そこはスーパースター。腰をかがめ僕の汚いポロシャツにサインしてくれた。なんていいやつなんだ…。

「あ、ありがとうございますぅ。」

本当は写真も撮りたかったけど、うっちーよりも背の高い挙動不審な男と写真なんて撮りたくないだろうから、お礼を言いすぐにその場を離れた。そしてうっちーは通訳的な人とともにクラブハウスへと帰っていった。

正直、心臓がばくばくしている。なにせ、有名人にサインをもらったのなんて、小学生の時に野球の清原にもらって以来だもん。後ろを振り返ると、女性記者が僕をにらんでいた。そうだ、ペン返すの忘れてた。

僕はありったけの感謝を込めて「ダンケ・シェーン!」と笑顔でいったが、彼女は何も言わずにペンをとり、立ち去って行った。ああ、きっと彼女はこれで日本人嫌いになるんだろうなあ。

ホットドッグ屋さんを見ると、例のおばちゃんがニコニコしながら僕を見ていた。「どう?私のおかげでしょ?」的な笑顔を浮かべるおばちゃんにサインを見せびらかし、こちらにもお礼を言い、一礼しその場を去った。少し強引だったが、なんだかんだ言って、うっちーに会えたのはこのおばちゃんのおかげなのだ。

もうしばらく余韻に浸っていたい気もするが、早くしないと、電車に乗り遅れる。なんといっても今日の目標はブリュッセルへ行くことであり、うっちーにサインをもらうことではないのである。

スタジアムの横を駆け抜け、路面電車の駅へと急いだ。

時計の針は午後1時をまわっていた。